さて、前回の講演会に行くまで何回かネット検索をしました。

 

「初めての教会」「礼拝に参加するには」などで検索していました。

 

ノンクリスチャンの私にとっては本当に敷居の高いものがありました。

学校もミッション系ではないし、人生に関わっていなかったのです。

 

子供のころ一度だけ連れて行ってもらった教会のことも思い出せないし、何かいい情報はないだろうか

と思ったのです。

 

こちらを見ました。

 

次にこちらを見ました

 

一つ目のページでは、簡単にどういうことが行われているのかとかカソリックでもプロテスタントでもどちらでもいいというのが少し気が楽になりました。

 

当時の私は世界史で習った知識程度の認識でしたので、細かい違いというのが判らなかったのです。

 

二つ目のブログでは、三浦綾子さんの著作を読まれている方が礼拝に参加する、戸惑いとか

勇気をもって教会へ行く部分がとても励みになりました。

 

私もわけがわからなくても、おかしなことを言ってしまってもとにかく行こう。そう思えたのです。

 

はじめ私は牧師と神父の違いも判りませんでしたし、三位一体もよくわかってませんでした。

 

 

 

この変なブログも、もし今後教会へ行ってみたいという方のちょっとした手助けになったらいいなと思ってます。

手を挙げてしまった。

 

でもそうしたかったんだ。

 

講演会が終わって、司会をしていた牧師先生が私のところへ来てくださいました。

 

「イエス様を信じたいと思ったのですね?」

「それはよくわからないのですが、自分の心中に静寂を持ちたいと思ったのです」

 

先生との語らいはそう長くはなかったはずです。

だけど琴線に触れたんだと思います。自分自身の本質が震えていたようにも思います。

涙が出ていたのを覚えています。

 

私は割合外では感情を出さないことが多かったのです。

悲しかったり、それってどうなの?と思っても出せなかったりしました。

なので初めてあった人の前、まだ人がたくさんいるのに泣くというのはありえないのです。

 

安堵している一方、冷静に目まぐるしく分析をしている自分もいました。

このシチュエーションに酔っているだけではないか。

弱っているので縋りたいだけではないのか、などなど。

 

先生は礼拝堂の後ろを見るようにおっしゃり「貴方は尊い」という文言を読んでくださりました。

 

(尊くなんかない)と私は思いもしましたが、そうであったらいいなとも思いました。

 

帰宅時の足取りは軽やかで、とても勇気のいることだったけれどやり遂げた気持ちでいっぱいになりました。

今の住まいの近くに、一番近くに教会ができました。

でも良くいくのは近所の神社でした。

神社はこじんまりとしています。なんとなくそわそわしながらお願いはするけれど、

本当にあってるのかな?とかよく来過ぎて怪しい奴だと思われたらどうしようとか、

なんとなくよりどころのないものを感じていました。

 

そんな中、ちらしがポストに入っていて、講演会をするというものでした。

ポストには怪しいチラシもよく入るのです。

なので事前にちゃんとした教会なのかというのも調べました。

 

講演会のギリギリまで私は悩みました。

こっそり行って、ささっと帰ってきたらいいかなとか弱気な状態でしたがともかく出かけることにしました。

 

人がたくさんいます。

さっきまではこっそり、と思っていたのですがついたとたん挨拶してくれた方に「初めてなんです」

と言っていました。

 

多分ごまかしたくなくなったんだと思います。

わからないことだらけ、でも来たいと思ってきたんです。ということを伝えたかったのかもしれません。

 

席に案内してくださり、講演会を聴きました。

 

非常に残っているのが「キリスト教というのは体験の宗教だ。もう2000年も前のイエス様を感じるなんて

おかしいと思う方もいるかもしれません。でも私は確かにイエス様はいると感じた」という部分です。

 

 

「体験?」とても不思議な感じがしました。

でもそうあってほしいとも思いました。

私にとって今まで、お寺も神社も自分にしっかりと根がさしたものではありませんでした。

先祖代々のお寺であっても、なんだか自分がいていいのかなと思っていたくらいです。

宙ぶらりんでした。

それまでも知り合いのお寺で体験修行とか、般若心経を書いたりとかしたのですが、よくわからなかったし

修行の上っ面をなぞっただけでは正直どうしようもないのです。

でもどっぷり漬かる勇気もないし、求めていながらも私はいつも宙ぶらりんでした。

幻の様に触ることのできないもののようでもありました。

 

 

お話を聴いて、キリスト教に対する見方が変わりましたがこの時点では通おうなどとは思ってもおりませんでした。

毎週礼拝に通うなんてできないだろうし、すぐ飽きてしまうだろうから。

 

 

講演が終わったのち、牧師先生が「皆さん目をつぶってください。この中で初めていらっしゃった方手を挙げてください」

 

勇気を振り絞ってあげました。

 

「その中で「イエス様」を信じたいと思っている方いらっしゃいますか?」

 

(イエス様と神様は別なの?どう違うんだろうよくわからないなあ。でも心の中に静寂を持ちたい。

もうそれだけは心底本当なんだ)

 

手をあげました。

 

この時のこの感覚はうまく言葉になりません。

心の中に静寂を持ちたい。それはどういうことなんだろう。自分自身であるというシンプルだけど

ずっとないがしろにしていた部分を強めたいと思ったのかもしれません。

 

 

 

じゃあなぜ私は教会や、お寺、神社に心を惹かれていたのか。

 

子供のころは特に、私はよくわからないものを見たり、感じたりすることが多かったのです。

近しい家族は、私の様子を馬鹿にしたり「人間のほうが怖いんだよ。死んだ人が悪さするなら

なんで殺人犯はのうのうとしてるんだ」とか言われたものです。

 

自分の頭がおかしいのか、本当にそういったものがいるのか、身を守るすべを知りたいというのが原点だったかもしれません。

 

そういったことに耐性が付いてきてもなぜだか惹かれていました。

 

大人になり、どうにもならないつらい出来事などが起き、それなりに解決しようと努力していました。

様々な本を読んでいて、海外の著作だったのですがたしか何かの依存症の人の話だったと思うのですが

7つのステップみたいなのがあり、「神にゆだねる」とあったのです。

 

また何かのスポーツの本には、プロのすさまじい戦いの中で最後の精神的なよりどころは「神」である。

無宗教に近い日本人はそのよりどころを持たないので、最後のギリギリの攻防戦で信じるのが自分であって

無条件に信じきれない時もある。みたいなものも読んだことをなんとなく覚えています。

 

「神ってなんだろう?」

 

海外ドラマなどでも良く、教会に集まって薬物依存などの自助グループの場面なども見ていましたが

謎でした。

 

学校で習うことなどを通してある程度知識として、宗教というのはとらえていましたが自分事ではなく

知りたいけれどさっぱりよくわからないものでした。

 

興味はあってもいきなり足を踏み入れるのは本当に怖いものです。

カルト的なものとの違いも判らないし、自分が制限されるような気がしたのです。

 

 

 

今年になってなぜ急に行こうと思ったのかはよくわかりません。

私の人生の中で様々なものが積み重なって、影響しあい偶然というか導きというか足を踏み入れることになったという感じです。

私はノンクリスチャンの家系で生まれました。

先祖代々のお墓はお寺にあります。

でも熱心な家ではなく、むしろ宗教なんて胡散臭いという人たちに囲まれて過ごしていました。

 

確かに宗教がらみの事件は多く、非常に巧妙ですし、しつこく嫌な思いをすることもありますからね。

 

そんな私ですが、子供のころ一度だけクリスマス礼拝に参加したことがあります。

 

今も覚えているのですが、初めて足を踏み入れた教会はテレビや映画で見ていたのとは違っていて

ステンドグラスも、十字架にかけられたイエス様もおらず、子供心には少しがっかりしたのでした。

 

教会の方がこちらにいらっしゃって、母に「どうですか?」と尋ねたときも

「この子、テレビで見るような教会を想像していたようで少しがっかりしているようです」

と答えてたように思います。

 

その時教会の方は「ここはそういったものはおかないんだよ。偶像を崇拝することになるから。

神様はそうしたものに宿るのではなく、この場を通して感じるんだよ」みたいなことをおっしゃってくれたよう

におぼています。

 

「ふーん、そうなんだ。神様って見えないのにどうやってつながるんだろう」

と思った覚えもあります。

 

 

その後今年に入るまで、祈りの家である教会に礼拝などのために足を踏み入れることはありませんでした。

観光とかはあるんですけれど。

 

 

でもずっと気になっていました。

教会だけでなく、お寺だったり、神社だったりもそうですけれど、職場の近くにあると案内を見たりいつ礼拝があるのかなどはチェックしていました。

 

 

でも子供の時の様に近くにクリスチャンの方はいませんでした。

どなたでもどうぞ。とは書かれていても自分のような中途半端な人間が足を踏み入れて失礼に当たらないだろうか

など考えて、また一度足を踏み入れたら規則でがんじがらめになって不自由になるのではないかなど

謎が多い分、どうしていいのかわからなかったのです。

 

また、怖いイメージがありました。

仏教には地獄、キリスト教は信じていない人は死後復活できないなどすべてを救わないと思える姿勢が

利己的にも感じていたのです。

 

また、学校の近くで冊子だったり聖書が配られることもありましたが、とても怖い内容のものが多く

こんな恐怖で縛るものはおかしいと思ったりもしていました。

 

心機一転、ずっと放置していたこのブログを復活させようと思います。

 

今年になって勇気を出して、キリスト教会へ行ったみたのですが、そこで様々な学びがあったと思います。

 

このブログの説明文にも書いたのですが、

スピリチュアルの学びと体験について書こうと思ってこのブログを開設したのですが、
自分らしく振舞うことができない、無理をしていると感じました。

他人の目を気にしすぎているというか。


今年になっていろいろ変化があって、今日書きたいと思えたので書いていこうと思います。

 

 

初めまして、あおねこです。


こちらのブログではスピリチュアルについての学びを中心に活動していこうと思っています。
現在はにて学びを進めているところです。




もともと子供のころはスピリチュアルが好きだったのですが、大人になるにしたがって
離れていました。

その頃は占いも信じてないし、ものすごい現実的でした。



色々なことがあって、現実的な対応をしていても同じ問題が繰り返していて、
「もしかしてスピリチュアル的な原因とかあるんじゃないか」
と思うようになって、様々な出会いを通してカタツムリのようにちょっとずつ学びを進めたり、休んだりしていました。


いろんなブロックがあって重かった部分が少しずつ外れて、ようやく少しは自分らしいところが
でてきたなと思ってます。


今はメールセミナー中心ですが、同じ学びをしている人たちと交流をもったり
勉強会などできたらいいなと思ってます。