今の住まいの近くに、一番近くに教会ができました。
でも良くいくのは近所の神社でした。
神社はこじんまりとしています。なんとなくそわそわしながらお願いはするけれど、
本当にあってるのかな?とかよく来過ぎて怪しい奴だと思われたらどうしようとか、
なんとなくよりどころのないものを感じていました。
そんな中、ちらしがポストに入っていて、講演会をするというものでした。
ポストには怪しいチラシもよく入るのです。
なので事前にちゃんとした教会なのかというのも調べました。
講演会のギリギリまで私は悩みました。
こっそり行って、ささっと帰ってきたらいいかなとか弱気な状態でしたがともかく出かけることにしました。
人がたくさんいます。
さっきまではこっそり、と思っていたのですがついたとたん挨拶してくれた方に「初めてなんです」
と言っていました。
多分ごまかしたくなくなったんだと思います。
わからないことだらけ、でも来たいと思ってきたんです。ということを伝えたかったのかもしれません。
席に案内してくださり、講演会を聴きました。
非常に残っているのが「キリスト教というのは体験の宗教だ。もう2000年も前のイエス様を感じるなんて
おかしいと思う方もいるかもしれません。でも私は確かにイエス様はいると感じた」という部分です。
「体験?」とても不思議な感じがしました。
でもそうあってほしいとも思いました。
私にとって今まで、お寺も神社も自分にしっかりと根がさしたものではありませんでした。
先祖代々のお寺であっても、なんだか自分がいていいのかなと思っていたくらいです。
宙ぶらりんでした。
それまでも知り合いのお寺で体験修行とか、般若心経を書いたりとかしたのですが、よくわからなかったし
修行の上っ面をなぞっただけでは正直どうしようもないのです。
でもどっぷり漬かる勇気もないし、求めていながらも私はいつも宙ぶらりんでした。
幻の様に触ることのできないもののようでもありました。
お話を聴いて、キリスト教に対する見方が変わりましたがこの時点では通おうなどとは思ってもおりませんでした。
毎週礼拝に通うなんてできないだろうし、すぐ飽きてしまうだろうから。
講演が終わったのち、牧師先生が「皆さん目をつぶってください。この中で初めていらっしゃった方手を挙げてください」
勇気を振り絞ってあげました。
「その中で「イエス様」を信じたいと思っている方いらっしゃいますか?」
(イエス様と神様は別なの?どう違うんだろうよくわからないなあ。でも心の中に静寂を持ちたい。
もうそれだけは心底本当なんだ)
手をあげました。
この時のこの感覚はうまく言葉になりません。
心の中に静寂を持ちたい。それはどういうことなんだろう。自分自身であるというシンプルだけど
ずっとないがしろにしていた部分を強めたいと思ったのかもしれません。