2020年2月27日

 

 

古井由吉先生がこの18日肝細胞癌で逝去されたことをヤフーニュースで知った。82歳だったとのこと。

 古井由吉を知らない人に対して、あと何年か経ってからの日本文学史には、今の鴎外や漱石のような取扱いをされるようになる小説家だぞ、と筆者は説明していた。

 縁があって何度かお話をする機会があった。初対面は先生のお宅で、その時は2時間ぐらいお邪魔していたと記憶する。一応、仕事ということでお伺いして、長居をして、小説「野川」の本にサインをいただいた。

 古井先生は高校の先輩だった。小説の中に出て来る人物たちの会話がいかにも我が高校出身の人たちという感じを強く受けることがあった。小説の大きな背景となる日本の社会状況、経済状況、実業界の雰囲気といったことを先生は高校時代の仲間から得ておられるのではないかと推測していた。現実と非現実の境目が分からなくなるような先生の作品が実はそういう基盤のもとにあるという感じがしていた。

 先生のお宅は世田谷の馬事公苑の近くで、馬事公苑の、特に雑木林の様子は小説に何度も何度も登場する。馬事公苑によく遊びに行っていた筆者はそれを実に懐かしく、うれしく読んだものだ。

 

 

 筆者の実力不足によって、実にもったいないことに先生からいろいろなお話を聞き出すこと能わず、何を話したのかはよく思い出せない。いま思い出す3つのことを書き留めておく。

 高校の正門前は息が切れるような急な坂である。戦後の栄養不足という状況で結核に罹患し、余命いくばくもなしという女子高校生が、その坂を喘ぎ喘ぎ上って登校を続けていた。高校でみんなと会って勉強することが楽しいからだと言っていた。先生はこういう話を筆者にされた。

 また、屋上から飛び降りて自殺しようという生徒がいたことがあった。体育の教師がロープを担いでいって屋上の生徒に迫り、最終的に思いとどまらせたことがあった。この体育教師は筆者の在校中にもまだ学校に残っており、筆者の所属クラブの少しボケが来た感じの顧問だった。あの顧問が溌溂として活躍していたこともあったのかと印象に残っている。

 古井先生は死の近かった高校時代ということを当時若輩で死を知らぬげな筆者に伝えようという気があったのではないかと、今になって思う。

 競馬の好きな先生はJRAの月刊誌「優駿」に毎月「競馬つれづれ草」という見開き2ページの連載をされていた。その日の季節天候の様子とレースの展開を実に細かく書き表したものだ。毎月毎月大変でしょうと質問したところ、レースは終わりがはっきりあるから書くのが楽だと言っておられた。本業の小説のほうの終わり方には苦労されていたのであろう。

 

 

 先生に仕事の愚痴でも語って寸評をいただきたいところであったが、かなわぬこととなってしまった。 合掌