国立劇場の鏡獅子(国立劇場の鏡獅子)





 岡山県の南西端、井原市の市役所隣に田中美術館がある。たなか美術館ではない。でんちゅう美術館である。

 半蔵門の国立劇場正面ホールに飾られている大きな木彫「鏡獅子」の作者で文化勲章受章者・平櫛田中(1872~1979)を記念する市立美術館である。

 その田中美術館で、国立劇場にある「鏡獅子」について、いくつかのエピソードを知ることができた。



 その1、鏡獅子のモデルは六代目菊五郎(1885~1949)であり、そもそも、その六代目の鏡獅子を彫りたいというのが制作動機だった。(今の菊五郎は七代目、血のつながりはない。)

 その2、仕事に取り掛かったのが太平洋戦争前の1936年、完成は戦後の1954年で、22年もの時間を要しているのであり、完成時すでに六代目は亡くなっていた。

 その3、いくつもの試作があるようだが、その最初の試作は1938年の院展に出品された「鏡獅子試作裸像」で、六代目の裸の姿であった。六代目の50歳前後の裸ということになる。

 (六代目は踊りを九代目団十郎(1838~1903)に習うとき、裸になって体の動き、筋肉の使い方を見てもらっていたそうで、そういう話が試作裸像につながっているのかもしれない。ちなみに3年前に亡くなった団十郎は十二代目で、九代目とは血のつながりはない。また、浅草寺本堂裏にある銅像「暫」は九代目の像である。)


鏡獅子試作裸像 (鏡獅子試作裸像)



 その4、完成した「鏡獅子」は国が2億円で買い取ることを申し出たが、作品は六代目とともに作り上げたものであるとして田中は売却を断り、国立近代美術館に寄贈されることとなり、現在国立劇場正面ホールにあるというのはそこから貸与されているのだそうだ。


 文化勲章受章時、天皇から「いちばん苦心したことは何か」と問われて、「おまんまを食べることでした」と答えたそうだ。田中は学校出ではなく、世に出るまでにさんざん辛酸をなめた苦労人であった。田中というのは平櫛家に養子に出される前の姓である。

 田中が師と仰いでいたのは岡倉天心(1863~1913)で、天心像をいくつも制作しており、田中美術館の入り口には「五浦釣人」と名づけられた天心像がある。「ごほちょうじん」と読ませているそうだが、「五浦」は「いずら」、茨城県北端の海岸で、東京美術学校から飛び出た天心ら、日本美術院のメンバーが集まっていたところだ。




五浦釣人 (五浦釣人(岡倉天心))