2013年9月30日



今回紹介する詩に筆者の付けた題は「知神観空」である。「神を知り空を観ずる」である。岩波文庫69ページ、80番目の詩、すなわち前回の次の詩である。
この場合、「神」とは当然のことながら人格神的神ではなく、神秘、神妙、見事なる法則性、全体性、統一性といった意味ではないかと思われる。

 碧カン泉水清し            (緑の谷に湧き出る泉は清く)
 寒山月華白し             (冬のさびしい山に月は白く輝く)
 黙して知れば神自ずから明らかに (この世の神秘であることがおのずから感知され)
 空を観ずれば境いよいよ寂なり   (この世の空を観ずれば静寂の境地に至る)


 寒山詩の典型ともいえる境地がうたわれている。悟入、悟達の境地である。
 しかしながら、前回もそうであったが、寒山詩には悟入、悟達の人のものとは読めない、俗世への拘泥を感じさせるものが多々ある。
 仙境の感得は必ずしも悟入、悟達を条件とするものではないという気もする。
 政治家や経済人の参禅はよくあることだし、俗人は大挙して深山幽谷に入る。
 スキューバダイビングを趣味とするやくざもいた。そのやくざはその後子分に惨殺された。