2013年9月10日


 今回紹介する詩に筆者の付けた題は「六道は我に干(アズカ)らず」である。この題は詩の最後の行そのままなのだが、解釈に諸説あるらしい。カッコ内は筆者なりの最後の行の解釈と整合するように全体を解釈したものである。岩波文庫63ページ、71番目の詩である。

 啼哭(テイコク)何の事にか縁(ヨ)る     

(啼きわめかないではいられない、何によってか?)
 涙、珠子顆(シュシカ)の如し  (涙は玉のようにボロボロと落ちる)
 応当(マサ)に別離有るべし   (友との別離もある)
 復(マ)た是れ喪禍に遭はん   (家族を亡くすこともある)
 為す所貧窮に在れば       (いかにしても貧窮を逃れられず)
 未だ能く因果を了せず      (因果というようなことを理解するに至れない)

 冢間(チョウカン)に死屍を瞻(ミ)よ     

     (墓場の累々たる屍を見てみれば)
 六道は我に干(アズカ)らず   (六道の教えは私のような者にとっては遠い教えだ)

  「六道」とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの世界をいい、因果によって人はこの六道をめぐるというのが輪廻の思想だ。
  そして輪廻の思想では、善行を積み、悟りを得てこの輪廻から逃れることを究極の目標とする。
  一説には最後の行をこの六道からの脱却の宣言とするものもあるらしい。その場合には次のような解釈になる。

 (啼きわめいているが、どうしたのだ?)(涙が玉のように落ちているではないか)(友との別離があったのか?)(家族を亡くしたのか?)(貧窮から逃れられない状況にあれば)(因果ということに理解が及ばないのも無理はない)(墓場の累々たる屍を見て反省せよ)(私は六道の世界からの脱却を果たしているぞ)

 前者は寒山の自己告白的詩ということになり、後者は寒山の教育指導的詩ということになる。