2012年4月6日

 前通信の続きです。
 陽水の熱心な聴き手というにはほど遠く、以下は遠慮しながらの記述です。

 社会的事象に対する陽水の姿勢として象徴的に取り上げられるのは、「傘がない」です。
 その「傘がない」の背景にある、「傘がない」の姿勢を生み出した基礎的心理を表わしている重要曲は、「人生が二度あれば」だと思います。
 「人生が二度あれば」で歌われる両親のようにはなりたくないという願望、なってはいけないという自分への指示が陽水には強くあったと思われます。
 そして、そうなってしまうのではないかという恐怖と焦りが陽水にはあったのだと思います。

 そのような陽水の精神が、個人的関心を優先させることになり、社会的事象への意識はしつつ、かかわらずに捨ておいておくという、「傘がない」に象徴される陽水の姿勢を迫ったのだと思います。
 この姿勢のもっている半分自己肯定、半分自己否定が陽水の気分であり、この中途半端な気分の不可避性に対する諦めの気分が陽水の気分だと思います。

 歴史的にも、世界的にも豊かな生活を享受している現代日本の我々には、一方で世界中の様々な悲惨な事件が眼に、耳に、飛び込んできます。
 事件の当事者でないかぎり、事件に正面から向き合うことは困難であり、それとても多くの事件のうちのひとつの事件への対応でしかなく、豊かさを享受していくには多くのことを捨ておくほかないというのが、我々の時代です。(ニュースキャスターのいやらしさは、この事実を認めないふりをして、もっともらしいコメントを発するところにあります。)
 その結果生じる自己肯定と自己否定、快感と嫌悪感、加害者的気分と被害者的気分の同居状態から抜け出せないというのが、我々の時代です。
 喜びがあっても単純に喜べない、賛美すべきことを無邪気に賛美していられない、という不機嫌の時代が我々の時代です。
 「詩」の成立が困難な時代です。

 さて、東日本大震災、福島原発事故の悲惨は、この状況に変化をもたらすものであったのでしょうか?
 我々の豊かさの裏に過疎、高齢化の東北があった、原発の危険を負う福島への依存があった、と今更のように驚くのは正直ではないでしょう。
 うすうすは、みんな、不機嫌な気分で、このことのみならず、他の犠牲において、我々の豊かさが、かげりを見せつつも、成り立っていることを感づいていました。
 したがって、不機嫌の時代の不機嫌の総量と分布(個人差)には大きな変化はないでしょう。
 「詩」を要請する状況に変化はなく、そこに「詩」を供給することが困難な状況にも変化はないと思われます。