2001年6月11日
前回の続き。わずかな読書経験の遠いかすかな記憶に基づく「頭の
体操」であることに変わりはありません。
ややアルコールが残る頭に次のような疑問が湧いてきました。
「 ビフテキが好きという意味では谷崎潤一郎も常人を超えている。し
かし、谷崎が川端や三島のように『滅びの美学』に至らなかったのは
なぜだろう。」
その答えの仮説は次のようなものです。
「 川端や三島は、ビフテキ好きが高じて自らビフテキになろうとした。
谷崎のビフテキ好きは、ひたすらビフテキを崇拝して、ビフテキの前
にひざまづくのであり、自らビフテキになろうとしたのではない。
川端や三島は自ら神になろうとしたのであり、谷崎は神になろうと
いう不遜はなく、神をただ崇め奉った。
ギリシャ神話の太陽に近づこうとして墜落したイカロス、旧約聖書
の神に近づこうとして大崩壊したバベルの塔建設の試み、川端や三
島はそれであった。」
そして、更なる疑問は次のようなものです。
「 何が川端や三島の道と谷崎の道を分けたのだろう。」
その答えの仮説は次のようなものです。
「 川端も三島も谷崎も、豊富な遊蕩生活の経験があるはずだが(谷
崎は遊蕩生活の結果、病を得るまでに至っている)、その内容に違い
があった。
性的倒錯という意味では、3人とも倒錯しているが、倒錯の方向が
180度違っていた。
川端や三島は、崇められる立場も経験していたが、谷崎はひたすら
崇める立場であった。」