2001年7月27日

 前回の徳田秋声について、妻を追って自殺した評論家江藤淳は、30数

年前の若かりし頃、次のように批評しています。

「 『教育』を受けなかった秋声はそういう全体像〔あるいは世界像。漱石の

持っていたような。注〕を信じられなかった。というよりむしろそういう全体像

がありうることを知らなかった。したがって彼は、あたかも地図を持たぬ旅

行者 のように、明治 という転換期のもたらした混乱のただ中に浮遊しなけ

ればなら なかったのである。」

「 秋声に理想がなかったように西鶴にも理想はなかった。倫理の不在はそ

のいずれの作家の心をも苦しめなかった。」

「 秋声が下降しつづけてついに落ち着いた場所……つまり『強い大陽(ママ)
の光』 のさしこむことがないじめついた路地裏はこういう〔理想なく、『近代』
とも『儒学』とも無関係な。注〕『日本』を象徴する場所である。そこには
理想もなければ思想もなく、『庶民』的だからといって別に『あたたかく』もな
い。それは習慣以外の様式を持ち得ない狭い世界である。そこにはいざこ

ざはおこるが劇はおこらず、背徳が行なわれてもそれを裁く道義もない。し

かしそこで人は生きるのであり、人が生きていれば死ぬこともあるのである。」

 全文を掲げないで部分的引用をすることが公平でないことは承知ですが、

して江藤淳が秋声を全否定しているわけではなく、評価もしていることを言

っておかなければなりませんが、この秋声批評には、その批評軸を大知識人

夏目漱石においている、日比谷高校雑誌部出身のエリート、ナショナリスト、

江藤淳の自信満々さ、弱さを許さない厳しさ、それゆえの冷たさが現われてい

ると思われます。

 そして、その江藤淳は、最晩年〔たしか妻の死後〕に至り、「南州随想」で次

のように書いたのです。

「 西郷〔南州隆盛。注〕が生きながら神に祀られている〔西南戦争時、全国の

  反明治政府勢力から西郷は神と崇められた。注〕ということは、明治10年

在の日本近代化が、実はどんな無理を日本国民に強いて いたかということ

だ。  

 それが巡りめぐって現代に続いているのだ。私は、人は何も成功などしなく

よいと思うのだ、失敗して大いに結構だ。西郷は、要するに成功至上主義、

代化優先主義、優勝劣敗主義という風潮に対して『ノー』といったのである。

うではない、明治維新はそんなものを求めて起こしたものではない、と」。

 私は、この立場に立った江藤の秋声評を読んでみたい欲望にかられます。