2001年8月20日

  「古池や……」で有名な松尾芭蕉の「芭蕉」という名は、江戸深川の
閑居に門人が送った芭蕉が植えられていたことに由来するというのが
定説のようです。

  しかし、これでは日本思想史において重要な位置を占めるとされる
松尾芭蕉の名の由来としては、ただのいきさつだけで、思想性がなく
面白くありません。

 平安時代の浄土信仰の源ともいえる、したがって日本思想史の原
点ともいえる源信の「往生要集」に次のような一節があるそうです。
 松尾芭蕉はこの「往生要集」を読んでいたはずであり、私はこの一
節にある「芭蕉」こそ松尾芭蕉の名の由来ではないかと推定していま
す。

「 有為の諸法は幻の如く化の如し。三界の獄縛は一として楽しむべ
きことなし。王位高顕にして勢力自在なるも、無常既に至れば、誰か
存することを得るものぞ。空中の雲の須弥に散滅するが如し。この
身の虚偽なること猶、芭蕉の如し。」

(世の中の出来事に発生、消滅の法則などなく、不確定で危ういもの
である。自由な心の動きは妨げられて真の楽しみをうることはできな
い。地位や名誉や財産をもって死を免れることはできない。人の命は
雲が空中に消えるようなものだ。また、そのように見る自分自身も芭
蕉のように中身のないものだ。)

 葉柄が互いに巻き合って幹となる芭蕉は、ほかの樹木のように充実
した幹を形成していません。芭蕉の幹は中身スカスカの状態なのです。
 松尾芭蕉は、「往生要集」からヒントを得て、この芭蕉をもって彼の自
己否定と無常観を表わしたのではないかと思われるのです。