2001年9月6日
例えば印象派の絵画、例えばベートーベンの交響曲、例えば浜田庄
司の益子焼、これらは「芸術」であるということに大方の意見は一致する
でしょう。
それでは、印象派的観点からしばしば評価される子供たちの絵画、だ
れが作曲したのかも知れぬ農民の労働歌である素朴な民謡、実用品で
しかなかった時代の益子焼、これらは「芸術」といえるでしょうか、いいう
るものでしょうか。
この問題を裁く基準として、三島由紀夫の次のような考え方があります。
「 何がわれわれをそんなに破滅の衝動に追いやるか、私は建設的な
芸術というものをいつまでたっても信じることができない、そして芸術の
根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目
覚めさせて、ギョッとさせるということにかかっているという考えが失せ
ない。もし、芸術家のやることが市民の考えることと全然同じになって
しまったら、芸術が出てくる動機がないのである。」
(「私が魅せられたもの」
から)
また、どこで読んだのかまったく忘れてしまいましたが、たぶん1970年
前後に唐十郎が、本当かどうかわかりませんが、歌舞伎の語源は「かぶく」
という動詞であり、それは「攻撃する」という意味である、というようなことを
書いていた記憶があります。
私は、彼らの考えにまったく賛成であり、やや一般化すれば、「芸術とは日
常性に対する攻撃である」ということになると考えています。
したがって、攻撃の意図がそもそもないものは「芸術」とはいえず、設問に
対する私の答は「ノー」です。
秀吉が千利休に切腹を命じなければならなかった必然性も権力に迎合し
ない芸術の攻撃性にあったと考えられます。