2003年11月25日

 千住博(画家・京都造形芸術大学教授)という人の「美は時を超える」
というNHK教育テレビでの8回シリーズの講座が終回を迎えました。

 「美は時を超える」というその題名で、「普遍的美とは何か」というよう
なことについて講師の考え方が示されるのではないかという期待があ
ったのですが、結局期待はかなえられずに終わってしまいました。

 取り上げられたのは「アルタミラの洞窟画」「モネ」「中国の水墨画」「
日本美」「アメリカのハドソンリバー派」「鎧兜」「アンディ・ウォーホル」で
した。

 何故それらが取り上げられたのか?
 それらが「時を超える美」であると講師によって考えられており、特に
講師の興味を引いたものであるかららしい、ということが感じられただ
けで終わってしまいました。
 理屈を言えば、「美は時を超えるのだから、時を超えたものは美であ
る」というトートロジーに過ぎないのではないかとも思われました。

 「時を超えなかった美」とか、「ひとたびは死んだが、また復活した美」
とか、「時を超えた美とされているが美ではないもの」とか、そういうもの
があるのかどうか分かりませんが、そういう逆照射によって講師の考え
方が示されたならば、混乱しているのか、一貫性というものがあるのか、
さっぱり分かりにくくなっている美術の世界が少しは分かりやすくなった
のではないかと思われます。

 という原稿を用意していたら、最終回においてこの原稿に真正面から
答える講師の考え方が示されました。

すなわち
「このテロ(9・11)によりこの上ない大きな衝撃を受けた人々にとって、
テロ以前に世を騒がせていた現代美術はもはや「美術」としては全く通
用しないものになりました。何でもないものだった、ということが露呈し
てしまったのです。
 20世紀後半のニューヨークやロンドン、東京を席巻していた現代美
術とは「ショック、センセーション」をテーマにした芸術家同士が集まり、
牛の輪切りをホルマリンに入れて展示してみたり、捕獲禁止の動物や
昆虫で作品をつくるなど、これでもか、これでもかというグロテスクな作
品にエスカレートしていきました。そして、それがあたかも本当の真実
のように、美をあざ笑うかのような不気味なメッセージを発していたの
です。」
「そこには『美』もなければ、人に勇気を与えたり希望を与えたり、時に
は励ましたりという、本能的な機能は全く存在していませんでした。同
時多発テロを経験し、人々はやがて気づいたのです。こういうものでは
私たちは希望はもてないし、まして癒されない、と。」
「悪い冗談のような作品群がアートとして機能し続けるわけにはいきま
せんでした。」
「インターネットバブルのニューリッチたちによってまるでパーティーの
話題のためとしか思えないような買い方・売り方をされ、新たなスター
をどんどん生み出していたニューヨークのアートシーン。厳しい検証の
時を迎えたといえましょう。」

 早とちりをしなくてよかったと安堵しています。
 そして、講師の考え方が明らかにされたのはよかったと思います。
 しかし、「不気味」「グロテスク」と「勇気」「希望」「癒し」という物差しで
美術を切り分ける講師の考え方はあまりに安易、常識的に過ぎるので
はないか、それでは美術の世界を処理しきれないのではないか、とも
思っています。