坂口安吾について安岡章太郎の「純潔と無頼」と題する次のような文

に接しました。

「 ストイックといえば、安吾は長年、矢田津世子を愛しながら、彼女の
躯に一指も触れることがなかった。これは美談というより一種の奇譚の
如くに伝えられる。しかし、矢田への純潔尊重は、安吾としては当然の
ことだった。
《‥‥言論の自由などと称しても人間の頭のほうが限定されてゐるの
であるから、俄かに新鮮な言論が現れてくる筈もなく、之を日本文化の
低さと見るのも当たらない。あらゆる自由が許されたときに、人は始め
て自らの限定とその不自由さに気付くであろう》(『咢堂小論』より)
 自由が完全に許されて初めて自分の限定と不自由さを知るということ、
これが安吾の文学の根底にあるもので、純潔もそれがあって肉体が許
されるのであろう。‥‥」

 引用しておきながら申し訳ないことに、私には安岡の論理はよく分かり
ません。
 したがって、報告は第1パラグラフの事実とその事実には何らかの哲
学的とも思われる背景があったらしいということのみということになります。