2007年6月12日

 今人気の小説家浅田次郎を読む機会があり(「霞町物語」(講談社文庫))、それをきっかけに純文学と対比される大衆文学とは何なのかを考えてみました。そして、大衆文学とは、本来いわくいいがたい、複雑多岐で混沌とした人間、人生、社会、自然といったものから「おいしい」ところ、すなわち主観的な肯定的要素を、蒸留して純化したものだ、ということに思い当たりました。

 大衆文学といってもいろいろあります。時代小説、推理小説、エログロ小説、人情小説、スポーツ小説等々。それは、読者が何を「おいしい」と思うかという読者の嗜好の多様性に基づくもので、読者が「おいしい」と思うものを提供するという意味で、大衆文学はひとくくりにできるように思うのです。大衆文学では、読者の主観的な肯定的要素がまずあって、それに適合するように人間、人生、社会、自然の姿かたちが整えられるのです。大衆文学が提供する人間、人生、社会、自然の姿かたちは、そもそも、人間、人生、社会、自然の究極的実相を明らかにしようという意図に基づくものではないということになります。

 これに対して、純文学といわれるものは、大衆文学とはまったく逆に、読者のもっている人間像、人生観、社会観、自然観に対する異議申立てであり、読者の主観的な肯定的要素をもって人間、人生、社会、自然と見なすことに対する異議申立てであり、読者の恣意性、主観性に対する作家からの普遍性、客観性の主張ということができると思います。異議申立てしないではいられないというのが作家の執筆エネルギーになっているのが純文学だと思います。