2008年7月12日

 国立新美術館(乃木坂)で開催中の「アボリジニが生んだ天才画家 エミリー・ウングワレー展 (赤い大地の奇跡・5万年の夢(ドリーミング)に導かれ、彼女は絵筆をとった。)」を観てきました。80歳ごろからカンヴァス画を描き始め、その後1996年に亡くなるまでの8年間に3千から4千の作品を描いたというアボリジニ女性画家の展覧会で、その作品はアボリジニの伝統に根ざす、ほとんどが点描、線描の抽象的絵画です。  

 その展覧会で考えさせられたこと、2点を報告します。

 

その第1点。我々の持っている個人とか個性とかいう概念は近代人に特有のものであろうということ。肉体の個別性がある以上、アボリジニの世界にもそれを反映した人間の個別性についての考え方はあるだろうが、それは我々の持っている個人、個性という考え方とは大いに異なるだろうということ。したがって、ウングワレーの作品を近・現代美術を観る時のように個人の作品、個性の発現として観るのは大きな誤りなのだろうということ。個人、個性ということについてウングワレーの作品と現代美術は対極にあるにもかかわらず、現代美術の世界の中でウングワレーの作品が抽象的表現として高い評価を受けているという事実があるということには、偶然を超えた深い意味があるのではなかろうかということ。すなわち、近・現代美術における個人、個性の追求が、いまや、ついに没個人、没個性に至り、近・現代美術は180度転回してアボリジニ伝統芸術と同一の地平に向かっているのではなかろうかということ。

 その第2点は第1点とも関連するが、ウングワレーの作品制作意欲はどこから来ているのだろうかということ。ウングワレーにウングワレー個人の自己表現、自己顕示という精神は考えがたく、カンヴァスとアクリルという現代の絵画制作手段を手にして、彼女に生まれた制作意欲は、与えられた空間を秩序化したいということだっただろうこと。与えられた空間を秩序化したいという意欲は、言うまでもなくアボリジニ芸術に特有のことではなく、美術一般の共通の基礎であり、彼女の制作意欲にはその空間秩序化意欲以外の夾雑物(例えば個性の発揮)はなかったため、そして彼女にとって秩序化された空間のモデルは彼女の故郷(ユートピアという地名)の自然を背景にしたアボリジニ伝統芸術だったため、彼女は素直にそれに従ったのであろうこと。

 近・現代美術の最先端がアボリジニ伝統芸術の地平に至りつつあるのではないかという推定はあるものの、我々現代人は、おだやかな伝統のふところに抱かれてまどろむ(ドリーミング)という世界(ユートピア)から遠く離れてしまっています。