2008年8月1日


 「うしろすがたのしぐれていくか」「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火、その寂寥感の淵源が、山頭火9才の時の母親の自宅井戸への投身自殺、山頭火自身によるその目撃にあることは、山頭火を知る人の誰もが認めるところでしょう。更に、6歳年下の妻サキノとの戸籍上の離婚、余儀なき別居も山頭火の寂寥感を生み出していると思われます。

 山頭火の名句といわれるものが誰に対して投げかけられたメッセージなのか、と考えてみますと、そこに異性を想定せざるをえません。山頭火は僧形、行乞の人ですが、いわゆる仏教的虚無感というものは、乾いていてサッパリしているはずであり、その点からすると山頭火の句はウエットであり、メッセージの相手に対する甘えごころがあり、仏教的虚無感とは異質の要素が色濃く存在しています。その人間味が山頭火の人気を呼ぶ理由だと思われます。

 山頭火の句から直接異性が登場する句を引っ張り出してみました。

吾妹子(わぎもこ)の肌なまめかしなつの蝶(29歳、すでにサキノと結婚)

いさかえる夫婦に夜蜘蛛さがりけり(35歳、相手はいうまでもなくサキノ) 

雪ふる中をかえりきて妻へ手紙かく(37歳、翌年離婚)

すげない女は大きく孕んでいた(48歳、行乞中に出会った女)

枯草ふんで女近づいてくる(48歳、これはサキノらしい)

逢うて戻ればぬかるみ          (49歳、サキノ)

詫手紙かいてさうして風呂へゆく     (49歳、サキノ)

星があって男と女         (49歳、これもサキノか?)

水を渡って女買ひに行く         (50歳)

秋の夜ふけて処女をなくした顔がうたふ  (53歳)

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする (56歳)

たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと(58歳、逝去の年)  

さて、自分自身の寂寥感の淵源は何処にあるのか。