2009年4月24日
雑想通信675(「生」の置かれている状況:4月15日)では、武田泰淳作「ひかりごけ」での難破運搬船の船長の人肉食事件で発せられた言葉「我慢」を、我々の「生」が置かれている状況を象徴する言葉として紹介しました。
同じ武田泰淳による小説「秋風秋雨人を愁殺す~秋瑾女士伝」で作家自身の言葉として発せられた「我慢」を見つけました。
これまた、異なった意味合いで、我々の「生」の置かれた状況を象徴するものと思われます。
「秋風秋雨人を愁殺す~秋瑾女士伝」は、孫文の辛亥革命に先行する清朝打倒・中国革命運動の中で斬首刑となった女性革命指導者・秋瑾を主人公とした武田泰淳の長編です。
小説中に武田泰淳がテレビ番組「ママと私のおしゃれおしゃべり」に出演した時の憤懣が書かれています。
「 もしも秋瑾女士が生きつづけていて、このテレビ局に出演している私、その私をとりまくおしゃれ男女を目撃したら、どんな気持がするだろうか。私はたいがいの恥ずかしいことなら平気でいられる人間である。平気でいられるからこそ、今なお生きていられるのである。しかしながら、私は、そのお白粉や香水やクリームや何だか知らないが、おそろしく高級な化粧品の匂いのプンプンする控室で、叫びだしたいのを我慢していた。
…………
しかし私は、テレビ局でも黙っていたようにして、今後もなるべく黙りつづけたいと思う。」
武田泰淳のこの「我慢」は、人肉食事件の「我慢」が象徴する、人間が普遍的に背負わなければならない「我慢」(批評の中にはキリスト教における「原罪」になぞらえるものもあったようです)とは異なる性格のものと思われます。
それは、時代的、場所的限定のある「我慢」と思われます。
すなわち、現在の「豊かな時代、豊かな社会」が、重く長い人類史、今日の世界的貧困と戦乱を背景に持っている以上、逃れることができない「負い目」の存在、無邪気な繁栄の謳歌を妨げる人類意識が我々に強いる「我慢」です。