2009年5月9日
まったくの素人なので、二人の陶芸家板谷波山(1872~1963)と浜田庄司(1894~1978)を並べていいものなのかどうかもわかりません。
しかし、まったくの素人として、二人の陶芸家が提示しているものが、それぞれ「美」とされていることを、それに異議があるわけでないことはもちろんですが、いかに整合的に理解したらいいのか、考えざるを得ないところです。
板谷波山の陶芸作品は、鑑賞対象美術品制作の我が国の伝統に連なる最高度の達成であり、戦前は帝室技芸員として皇室にその技術を提供し、作品の一つは近代の陶磁器として初めて、平成14年に重要文化財の指定を受けました。
私などが到底文字に表わすことはできませんが、その作品には緻密、繊細、秩序、洗練、静謐、整然といった単語が当てはまるように思われます。(6月14日まで六本木1丁目「泉屋博古館」で展示会開催)
一方、浜田庄司は柳宗悦らとともに民芸運動を主導し、職人たちの手仕事により制作された民衆の実用のための家具・調度にある「美」を見出し、自ら栃木県益子で陶芸に従事したのでした。
その作品には、質実剛健、大胆、生命力、勢い、流動、混沌、乱調といった言葉が当てはまるように思われます。(駒場東大前「日本民芸館」で常設展示)
この対極にあると思われる二人の陶芸家の「美」をいかに整合的に説明することができるでしょうか。
プラトンの「美」の考え方をハイデッガーが次のように紹介しています。
「美しいものとはもっとも端的にわれわれを訪れ、われわれを魅了するものである。美しいものは……われわれを存在への視向へ転位させる。」
(この場合の「存在」とは、ただの存在という意味ではなく、本来的な、不変の、真の「存在」、プラトンの言葉で「イデア」を意味しています。
そして、プラトンは真の存在たる「イデア」は超感性的なものであり、感性的なものは真の存在ではないので信を置けないと考えます。
しかし、感性的なものである「美しいもの」は、感性的ではあるものの、超感性的な「イデア」に目を向けさせるという特別な作用があるというのです。
そういうものが「美しいもの」なのだというのです。)
「美しいものとは、もっとも感性的現象に参入しながら、しかも同時にわれわれを存在(=イデア)の中へ高め去っていくという、内的に背馳するもの--魅惑しつつ超脱させるもの--なのである。こうして、美しいものはわれわれを存在(=イデア)の忘却から引き立て、存在(=イデア)への視向を授けるものである。」
さて、プラトンは決して「イデア」(何らかの理念型と考えておきましょう。)の複数存在など認めないでしょうが、仮に時代、文化、その人の置かれている状況などによって「イデア」の複数存在があるとすれば、ある「イデア」へ視向させる「美」と、別の「イデア」に視向させる別の「美」がありうることになるのではないでしょうか。
こうすれば、プラトンを援用し、かつ反抗することにより、ともに「イデア」へ視向させる力を持つことにより、板谷波山も「美」、浜田庄司も「美」という素人的妥協がめでたく成立します。