(キャンディですって!彼女はあなたが愛してやまない人でしょう?そんな女性がすぐそばにいたら何が起きるか分からないわ。二人の意思とは関係なく、些細なことがきっかけで恋心が再燃するかもしれない。そうなったとしても私はどうすることも出来ないの。だってボストンとニューヨークは途方もなく離れているもの。遠い・・・遠すぎるわ。物理的な距離だけじゃない。あなたと私の心の距離が遠すぎるのよ)
フェリシアがなかなか返答しないので不安になったアンソニーは、彼女の目線と同じ高さまで身をかがめ、緑の瞳が何を映し出しているか探ろうとした。
「やっぱり反対かな?僕がニューヨークへ行くこと。気が進まないならこの話は断るよ」
彼の声でやっと我に返ったフェリシアは慌てて否定する。
「断るなんて勿体ないわ。せっかくのチャンスですもの。ただちょっとびっくりしただけ。キャンディがいる病院って聞いて。でも安心して。心から応援するわ。だってもし私があなたの立場だったら絶対ニューヨークへ行くと思うから。間違いなく貴重な経験になるはずですもの。だから気を遣わずに思う存分勉強してきてね。あなたが研鑽を積んで帰ってきたら私も嬉しい」
限りなく優しいトーンで話すとフェリシアはにっこり微笑んで見せた。
心に降りしきる土砂降りの雨を少しも感じさせることなく。
それは女の意地であるとともにアンソニーへの限りない愛の証(あかし)でもあったろう。
もしここで涙を見せてしまったら、彼は後ろ髪を引かれて一歩も踏み出すことが出来ないだろうから。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると安心する。心から感謝するよ。ありがとう」
本当は気づいていたのだ。
フェリシアの笑顔がまやかしであることに。
彼女の胸の中は自分への猜疑心とキャンディへの嫉妬でいっぱいなことにも。
だからこそ「ありがとう」を二度も繰り返し、彼女の嘘に感謝しながらアンソニーはその場を離れた。
(ごめんフェリシア。本当はニューヨークへ行くべきじゃないのかもしれない。行ったところでキャンディはテリィと結婚するんだ。今更何がどうなるってもんじゃない。それにたとえキャンディが自由の身だとしても君を裏切るような真似は絶対にしない。それだけは信じてくれ。ただ、ほんの少し時間が欲しいんだ。君と離れて一人だけで考える時間が欲しい。あまりにもいろいろなことが起こり過ぎた。一つ一つを受け止めてすぐ実行出来るほど僕は大人じゃない。情けないと思うよ。でも君を幸せにするためにも、今とことん悩んでおきたいんだ。でなければ、きっと周りの圧力に押し潰されてしまうだろうから)
アンソニーがstudent café から立ち去ったあと、フェリシアは頭が真っ白になったままでしばらくは席を立つことが出来ないでいた。
脳裏にはアンソニーとキャンディが交互に浮かんでは消え、その映像が長いこと繰り返される。音も色もない古い映画のように。
ただ一つだけ鮮明に分かるのは、二人が心から愛し合っていること。
自分が作り上げたモノクロの映像の中でアンソニーとキャンディは互いを見つめ、しっかりと抱き合っていた。
見るに耐えられず激しく頭を振って深いため息をつく。
「どうしたの?何か困ったことでもあるのかしら」
後ろから肩をポンと叩かれ、驚いて振り向くとパティが微笑んでいる。
彼女とはボストンに着いた翌日にすぐ顔を合わせたから、会うのは今日で二度目だ。
最愛の人と婚約に漕ぎ着けそうなのに、会う早々不安げな顔つきだったフェリシアをパティは随分心配していた。
「アンソニーが帰ってきたんでしょ?なんとなく気になって様子を見に来ちゃった。迷惑だった?」
「ううん、そんなことないわ。いつも気にかけてくれてありがとう。ついさっきまでアンソニーとここで話してたのよ」
「まあ良かったこと!それで彼、婚約のこと何か言ってた?」
目をキラキラさせて問いかけるパティとは対照的に、フェリシアは浮かない顔をしたままだ。
「婚約の話が上がって以来でしょ?彼と会うの」
「ええ、まあ・・・」
視線を下に向けたままの親友を見て、パティは漸く雲行きが怪しいことに気づいた。
窓から差し込んでくる陽の光が明るければ明るいほど、彼女の暗い表情が絶望的に浮かび上がり、胸を締め付ける。
「何かあったのね?もし話したい気分ならここで私に打ち明けて。とことん付き合うから」
途端、今にも泣き出しそうな瞳が、まるで救いを求めるかのようにパティの横顔をなぞった。
「アンソニー、ニューヨークへ行くんですって。研修医として誘ってくれてる病院があるらしいのよ」
「何ですって!今なんて言ったの?」
思いもよらない発言に、もう少しで腰が抜けそうだった。
これから婚約しようという大切な女性を残し、一人だけニューヨークへ行ってしまうなんてどうかしている。
思いやりに満ちたアンソニーだからこそ、その決断は余計奇妙に思えた。
「しかもその病院ではキャンディが看護婦として働いてるらしいの」
更なる衝撃に襲われ、パティは返す言葉を失ってしまった。
これ以上無理というくらい瞳は大きく見開かれ、口が勝手にパクパク動く。
それでも言葉は何一つ出てこない。
「正直驚いたし、何より不安になったわ。だってキャンディはアンソニーが心から愛してる人よ。同情から婚約する気になった私なんか勝負にならないに決まってる。彼女のそばで一年近く過ごしたらアンソニーはもうボストンへ帰ってこないかもしれないわ」
そう言ってまた俯いてしまうフェリシアに、「あなたはそれでいいの?」と食い下がるパティ。
「キャンディにはテリィという婚約者がいるんだし、アンソニーは非常識なことする人じゃないと私は信じてるけど、このままニューヨークへ行かせてしまっていいの?」
念を押すパティに、「彼にとっては又とないチャンスだもの。同じ医者として快く送り出すべきだと思うわ」とフェリシアは気丈に答えた。
「分かった。でもこれだけは譲れないわ。お節介かもしれないけど、あなたの気持ちを私の言葉でアンソニーに伝えたいの。そうでなきゃ納得できないから」
いつもとは違う険しい眼差しに変わったパティに釘を刺そうと、フェリシアは怖いくらい真剣な視線を注ぐ。
「これだけはお願い!どうかアンソニーを責めないでね。迷った末に下した決断だろうから」
「安心して。事態を悪くするような真似はしないわ。だって私はあなたの親友であると同時にキャンディの親友でもあるのよ。二人とも幸せになってほしいからこそアンソニーに伝えなきゃいけないの」
パティはいつもの優しい瞳に戻り、微かな笑みをフェリシアに送った。
その晩パティは早速男子寮へ行き、舎監に頼んでアンソニーに取り次いでもらった。
女一人でこんな夜更けに男性を訪ねるなんてはしたないとは思ったが、フェリシアの苦しみを考えたら居ても立っても居られなかった。
一階にある waiting space で待っていると部屋着姿のアンソニーが笑顔で近づいてきた。ふと見ると彼の後ろにブライアンもいる。
「やあ!今日あたり来るんじゃないかと思ってたんだ」
自分の行動がしっかり読まれていることが恥ずかしくてパティはばつの悪そうな顔をした。
「こんな時間にごめんなさい。迷惑だったわよね?」
「いや全然」
「まあとにかく座れよ。食堂のおばさんに頼んでコーヒーを淹れてもらうから。あ、でも君は紅茶のほうがいいかな」
一応気を遣ったのか、ブライアンは愛想よく笑いながらパティを覗き込む。
だが彼女は質問には答えず、ほんの少しムッとした表情を浮かべた。
「そもそもどうしてあなたがいるの?私はアンソニーに会いに来たのよ」
「やせ我慢しなさんな。ホントは俺に会いたかったんだろ?」
「そんなこと絶対ありません!」
照れ隠しなのか、パティは唇を尖らせてブライアンの軽口に対抗する。
そんな二人のやり取りにぷっと噴き出すアンソニー。
「いつの間にそんな仲良くなったんだい?君らを見てると出会ったばかりの頃のジェフ先生とレイチェルを思い出すなあ」
「おいおい、兄貴と一緒にしないでくれよ~。ケチがつくから」
パティはきょとんとして男同士の会話を聞いていたが、ここへ来た目的を思い出したのかコホンと咳払いを一つして「じゃあ紅茶をお願いするわ」とブライアンに告げると、勧められた椅子に腰を下ろして切り出した。
「どうして私がお邪魔したのかお分かりよね?単刀直入に言うわ。お願いだからフェリシアを悲しませないで」
予想していたとはいえ、いきなり核心を突かれて圧倒されてしまい、すぐには言葉が出ない。
だがほんの少し気まずい沈黙が流れたあと、しっかりした口調でアンソニーの申し開きが始まった。
「君に責められて当然だと思うよ。誰が聞いたっておかしな話さ。大切なフィアンセをボストンに残して一人だけニューヨークへ行くなんて。しかもそこには今も忘れられない女性が看護婦として働いてる。非常識にもほどがあるって大抵の人は呆れるだろう。でもこれだけは分かってほしい。僕は今更キャンディとどうこうするつもりでニューヨークへ行くわけじゃないんだ。第一彼女にはテリィがいる。それにハーバード以外で研修医として経験を積むにはまたとないチャンスだと思うし、フェリシアと距離を置くことで自分を客観的に見ることも出来るだろう。長い目で見たら彼女にとってもそれがいい結果になるって信じてる」
ひとたび口を開いたら理路整然とした考えが滔々(とうとう)と流れ出し、パティはすぐに納得した。と同時にホッとした。
思いつきや一時的な情熱に突き動かされてアンソニーがニューヨーク行きを決心したわけではないのが分かり、感情的になっていた自分を恥ずかしいとさえ思った。
「さすがはアンソニーだわ。それだけ考え抜いて行動に移すならフェリシアも私も心配しなくていいわよね?」
「勿論!」
力強い声が即座に返ってきたのでパティは更に安堵する。
「ごめんなさい、私ったらすっかり熱くなっちゃって。そもそもこんな時間に押しかけたりして恥ずかしいわ」
「気にしないでいいよ。フェリシアもキャンディも君にとっては大切な親友なんだから真剣になって当然さ。却って感動したよ、友だち思いの君にね。僕だってそうなんだからブライアンは益々惚れ込んだに決まってる」
コーヒーと紅茶を運んできたまま黙って二人の会話に聞き入っていた相棒に、アンソニーはウィンクして見せる。
「な、なんだよいきなり。俺に話を振るなよ!」
柄にもなく照れているブライアンの肩をポンと叩き、「じゃあパティ、僕はレポートの続きを書かなきゃいけないから失礼するよ。あとはこいつがお相手するから」
アンソニーは微笑みながら座っていた椅子を片付けて暇乞いをする。
ブライアンと二人きりになる予感にパティの頬はほんのり色づき始める。
そんな様子を男性陣に気取られるのが恥ずかしいのか、彼女は巧みに話題を変えた。
「アンソニー、いろいろありがとう。くどいけどフェリシアのことどうぞよろしくね」
最後まで親友を気遣うパティに、「何も心配しなくていいよ」と頼もしい声が返ってくる。
「それと・・・実は僕からもお願いしたいことがあるんだけど、フェリシアの相談相手になってやってほしいんだ。僕がそばにいないときも彼女が不安になったり寂しくなったりしないように」
「勿論よ。任せといて!」とパティも優しい微笑みでアンソニーを見送った。
「なんだいあいつ、せっかく持ってきてやったコーヒーに口もつけずに退散しやがって。飲まないなら初めに言えって」
照れ隠しのつもりか、ブツブツ言っているブライアンを見てパティはくすっと笑う。
「忙しそうだもの、仕方ないわ。あなただって暇じゃないんでしょ?その紅茶を頂いたら失礼するわ」
気を遣うパティに感謝しながらも、ブライアンの表情は何となく寂しそうだ。
「本当はゆっくりしてってほしんだけど、それこそこんな時間に女性を引き止めちゃ迷惑だからなあ。せめて寮まで送らせてくれるかい?」
どんなふうに返答されるか不安げにパティを覗き込むと、「まあ嬉しい!頼もしい用心棒がついてきてくれて」と優しい笑顔が返ってきたのでホッとした。
女子寮への帰り道、夏の夜風に吹かれ、ブライアンとパティは肩を並べて歩いた。
二人でいられる幸せを噛みしめながらも、心の奥に住み着いているステアの面影を捨てきれず、パティはもどかしい思いでいっぱいだった。
ブライアンにもステアにも悪いことをしている気がして、どうしたらいいのか分からない。
そんな迷いを察したのか、ブライアンは優しげに問いかける。
「アンソニーがニューヨークで何をしようとしてるか心配?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
予想もしなかった質問が飛び出たのでパティは少し面食らう。
「だって浮かない顔してるからさ。君がそういう表情になるときは、決まって悩み事があるときなんだよ」
「まあ驚いた。よく観察してるのね」
「当たり前だろ!」
目の前でウィンクされてドキっとする。
「俺がちゃんと見張ってるから奴には馬鹿な真似なんかさせない。だから安心して」
それでもパティが不安そうだからブライアンは先を続けた。
「ついでに謝らなきゃいけないな。美味いものをご馳走するって約束したのに全然実行出来なくてごめん。なんせアンソニーがあの調子だ、俺だけ幸せになっちゃ申し訳ないんでね。そのせいで君にとばっちりがいっちゃってすまない」
聞いた途端、パティは思わずクスッと笑ってしまう。
まだ付き合ってもいないのに、まるで自分たちがもう恋人同士かのような自信たっぷりの発言がおかしかったから。
するとブライアンは不満げに鼻の下をこすった。
「あのね~、俺、マジなんだけど。冗談なんかこれっぽっちも言ってないつもりだよ」
「分かってる。嬉しいわ、とってもね」
年下の男の子をなだめすかすように余裕綽々(しゃくしゃく)のパティが憎らしくなり、「また君はそうやって俺をからかうんだ。趣味悪いなあ」と肩をすぼめる。
「とにかく手紙書くよ。俺はいつだって本気だから。それだけは忘れないで欲しい」
真正面から見つめてくるヘーゼルの瞳はもう笑ってはおらず、何だか怖いくらい真剣だった。
見つめ返したら、きっと抱き寄せられてしまうだろう。
そうしたらもう抵抗できないかもしれない。
それは即ちステアを裏切ることを意味する。
申し訳ない気持ちに襲われたパティは急に話題を変えてはぐらかした。
「寮が見えてきたわ。ここからは一人で大丈夫よ。忙しいのに送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
そう言われてしまっては、これ以上打つ手がない。
しつこくして嫌われるのは得策でないと判断したブライアンは「君こそ気をつけて。今日は会えて嬉しかったよ」と静かに微笑んだ。
引き揚げていく後ろ姿をガス灯が照らし出す。
見送るパティは名残惜しそうに広い背を目で追いかけていた。
彼の黒い影がオレンジ色の灯りに溶け込んで視界から完全に消えてしまうまで。
いつまでもいつまでも。
ニューヨーク――ウェストエンド・アヴェニューにあるアルバートのオフィス。
クライアントとの折衝が難航してアパートに帰る時間がなく、このところオフィスに寝泊まりする日々が続いている。
そのせいもあってか、ひどく疲れがたまっていた。
それに追い打ちをかけるように、たまたま見てしまった光景が頭から離れず、アルバートの心身は余計に参っていた。
見たくなかった光景――それはテリィとシェリルが楽しそうに語らいながら街中を歩いていく姿。
あれは二、三日前のこと。
商談の帰り、リムジンの車窓からぼんやり外を眺めていると、偶然二人の姿が視界に飛び込んできた。
ハッとしたアルバートはショーファーに向かって叫んだ。
「車を停めてくれ!」
「は、はい」
驚いた声がしたあと、車は急速にスピードを落として路肩に停まった。
その瞬間、真横の歩道をテリィとシェリルが並んで歩いて行く。
勿論彼らはアルバートに気づくはずもない。
(一体何を話しているんだろう)
窓を開けて会話を聞きたい衝動を必死に抑え、通り過ぎてく二人の姿を見送った。
猜疑心に満ちた青い眼(まなこ)を見開いて。
冷静に考えればそれは「単なる仕事仲間の他愛ない日常風景」だったかもしれない。
彼らは恋の話をしているわけでもなく、デートの約束をしているわけでもなく、ただ互いの演技を批評し合ったり、劇団員の噂話をしているだけなのかもしれない。
だがもしかしてその中にほんの僅かであっても、キャンディには聞かれたくない内容が含まれているのでは?――どうしてもそんなふうに考えてしまう。
いや、正確に言うと考えたいのかもしれない。
自分では意識していない、心の奥の奥で。
「ウィリアム様、どうかなさいましたか?」
突然ショーファーの声が聞こえ、現実に引き戻される。
ハッと我に返り、改めて車窓から外を見渡す。
目の前にマンハッタンの雑踏が広がり、人も車も街全体がせわしなく動き回っている。
あちこちに視線を泳がせたが、テリィとシェリルはもういなくなっていた。
(相当疲れてるんだろうな、僕は。あの二人が不義を犯してるわけじゃなし、こんなに考え込むなんてどうかしてる)
しばらくしてもアルバートから返答がないのを案じたのか、「あの・・・ウィリアム様・・・」と、ショーファーの声が再び響く。
それでやっと自分が置かれた状況を思い出し、雑念を振り払うようにアルバートは頭を何度も左右に振った。
「悪かったな、急に車を停めさせて。知り合いを見かけたと思ったんだが人違いだったよ」
「さようでしたか。もしお差し支えなければオフィスに戻りますが」
「ああ、そうしてくれたまえ」
アルバートは既にアードレー家総長の顔を取り戻していた。
街でテリィとシェリルを見かけたことを思い出しているうち、机に頬杖をついていたアルバートは再びまどろみ始めた。
朝の心地良い陽が疲れた心と体を癒してくれるのか、ふいに睡魔が襲ってきて思考回路を麻痺させる。
今自分がどこにいるのか次第に分からなくなってくる。
吸い込まれるように光の渦の中へ体が溶け込んでいく。
必死で目を見開くと、光が途絶えた先に広大な庭園が広がり、一面にバラの花が咲き誇っていた。
(ここはどこだ?本宅のバラ園か。それともレイクウッドか?)
そこで意識が途切れ、深い夢の世界へと滑り込んでいく。
色とりどりのバラたちに囲まれているのは30代に入った自分ではなく、まだ少年だった12歳のアルバートだった。
一緒にいるのは姉のローズマリー、4歳になったばかりのアンソニー。
そしてもう一人――ダークブロンドの直毛にアッシュグレーの瞳をした可憐な少女。
彼女を見た途端、30代のアルバートの意識が一瞬だけ蘇り、僅かなうめき声が漏れた。
この子・・・覚えている。
僕より少しだけ年下の、明るくて可愛い女の子。
何と呼ばれてたっけ。
彼女を見るたび胸がドキドキして、一緒に過ごせる時間が幸せだった。
きっとあれが僕の「初恋」――
今目の前に見えているのは、レイクウッドにあったローズマリーのバラ園だ。
僕が他の子供たちと接触するのを一切禁じられていた頃、ここで姉さんたちと過ごせる時間だけが唯一の救いだったんだ。
ローズマリーのそばにはいつも小さなアンソニーがいて、そしてたびたびこの美少女が遊びに来ていた。
一体誰だったんだろう。
僕の記憶が確かなら、ローズマリーの親友の娘だと、エルロイ大おば様から聞いた気がする。
そのときどこからか、姉の懐かしい声が聞こえてきた。
「アディ・・・アディ・・・私の弟は辛抱強くて優しくて、そして可哀想な少年なの。名前はバート。どうか仲良くしてやってね」
「はいおば様、喜んで!」
瞬間、アルバートの脳裏に「アディ」と呼ばれていた少女の鮮明な動画が蘇ってきた。
彼女は天使のような笑みを浮かべ、モスグリーンのドレスの裾をたくし上げてバレリーナのようにお辞儀して見せた。
春風にダークブロンドがさらさらなびいている。
カチューシャをしたストレートの髪は肩に届くほどの長さで、アッシュグレーの瞳は宝石のようにキラキラ輝いていた。
日差しをたっぷり浴びた頬は薄紅色に染まり、少女といえど神々しいほどの美しさに満ち溢れていた。
12歳の自分はすっかり夢中になってしまい、囚われの身の哀れな少年だということも忘れ、アディと会っているときだけは大切な人と同じ時間を分かち合える幸せを心の底から満喫できた。
そうだアディだ。少女の名はアディと言った。
アードレー家とはどういう関係があったんだろう。
立場上、僕も彼女に「バート」と名乗るしかなかったけど、お互いどこの誰かも知らないまま過ごしてたんだな。
本当に子供だったよ。
もし今なら彼女の素性を確かめるために、ありとあらゆる手を尽くせるのに。
アディと呼ばれていた美少女がアルバートの前に存在したのは、ほんの僅かな期間だった。
そのうち「ある事件」をきっかけに彼女はレイクウッドから姿を消し、それきり二度と現れることはなかった。
そうなると子供時代の淡い恋心などおぼろで儚(はかな)いものだ。
アディのことはやがてアルバートの記憶の奥底に沈められ、ここ20年というもの思い出すことさえなかった。
ポニーの丘でキャンディに出会ってからは尚のこと。
だがこれだけは決して消すことが出来ない事実――キャンディと会うずっと前、彼は既に「運命の少女」に出会っていたのである。
もしかしたら初めてキャンディを見たとき何かを感じて強烈に惹かれたのは、記憶の片隅にアディの存在があったからなのかもしれない。
無意識のうちに脳が二人の少女を結びつけ、キャンディは「形を変えたアディ」としてアルバートの心に深く根を下ろした。
だからアルバートにとって本物の「運命の出会い」はアディだと言えよう。
まどろんでいたアルバートが覚醒する。もはや白昼夢の中ではない。
しっかり目を見開いて立ち上がり窓辺へ歩いて行くと、眼下にマンハッタンの街並みが広がっている。
今ここにいるのは12歳の少年ではなく30代のアルバート。
アードレー家の大総長だ。
20年・・・いやそれ以上か。
会えなくなってからアディのことを思い出したことはなかった。
僕にもいろいろあったからな。
それにしてもなぜ今になって夢の中に現れたんだろう。
いつもキャンディのことを想っているせいか?
街で見かけたテリィとシェリルが気になってるせいか?
二人の関係がスザナのときのようにまたキャンディを苦しめることになりはしないかと案じてるせいか?
いずれにせよ、彼とは近いうちに会わなきゃいけないな。
そして単刀直入に聞いてみるべきだ、テリィの本心を。
その答えによっては・・・
アルバートの脳裏に浮かび上がった一人の男の虚像――栗色の髪にgreenish blue の瞳をしたその人物は、舞台衣装ではなく、なぜか聖ポール学院の制服を着ていた。
ニューヨークへ行く前に是非とも挨拶しておかなければと思い、アンソニーは久しぶりにオウバートン家を訪ねた。
メイベルの家庭教師をするために幾度となく足を運んだ邸宅だが、どんなに辛い気持ちで訪れようと、いつの日も変わらずバラの小径が迎えてくれて傷ついた心を癒した。
今日も例外ではない。
フェリシアの件で疲れ切った心に、色とりどりのバラたちがきらめく光を送り込む。
甘い薫りが鼻先をくすぐり、アンソニーを夢見心地にさせる。
微かに吹いてくる秋の風が庭園の草花を揺らし、鼓膜に心地良い振動を伝える。
アンソニーは思わず立ち止まり、辺りの空気を胸いっぱいに吸い込んで瞳を閉じた。
瞼の奥に浮かんでくるのはレイクウッドの風景。
今まさにキャンディと二人でバラの門に立っているような錯覚を覚えた。
「やっぱりアンソニー先生だわ!バルコニーから見てたら先生に似てる人が正門から入ってくるのが見えたんで、もしやと思って来てみたんです」
突然聞こえた声に驚いて目を開けると、少し離れたところにメイベルが立って微笑んでいる。
「やあ久しぶり!」
すかさず片手を挙げて挨拶すると、メイベルがいる位置からかなり遠くにもう一人の姿を認めた。
背格好からしてどうやらティモシーらしい。
彼がここにいるということは、メイベルとかなり親しくなっているのだろうと容易に想像できた。
(ティム、良かったな。大好きなメイベルに振り向いてもらえて)
彼女はやっとふさわしい相手に巡り会えたのだ。
恐らく自分に好意を寄せてくれていたであろうメイベルが、同じ年頃の少年に恋したことにホッとする。
ともに16歳の彼らが互いの想いを温め合い、大切に育んでいるのをアンソニーは微笑ましげに見守った。
左足を引きずって歩くメイベルのそばに素早くやってきたティモシーは、彼女を優しくエスコートし、二人揃ってアンソニーの前に並んだ。
「お久しぶりです。先生がいらっしゃらない間、僕らにもいろいろありましたけど先生は本当に大変だったんですね」
礼儀正しく切り出すティモシーにアンソニーは少々きまり悪そうな顔をした。
「心配かけて申し訳ない。それに隠してることが沢山あってすまなかった。立場上、どうしても言えなくてね。分かってもらえたら嬉しいんだけど」
「分かってますとも。僕らが先生を恨むわけないじゃないですか!」
ティモシーの言葉にメイベルも深く頷いた。
「そう言ってもらえてホッとしたよ。ティムは医学を学べることになったし、それに何よりもう一つ最高のプレゼントをもらえたから今や世界一幸せな男になったもんな」
最高のプレゼントとは?――アンソニーが意味深な発言をすると、若い二人は揃っていぶかしげな顔つきになった。
予想どおりの反応がおかしかったのか、アンソニーはフフッと笑いながら得意げに言う。
「隣にいるメイベルのことだよ。まさかこんなに早く付き合えるようになるとは思ってなかっただろ?」
聞いた途端、ティムもメイベルも真っ赤になった。
「知ってのとおり、僕はもうすぐボストンを離れる。だからメイベルのことはお前に任せるよ。陰になり日向になり、いつも彼女のそばにいて支えてやってほしい」
アンソニーが差し出した右手を痛いほど握り返し、ティモシーは真剣な目で大きく頷いた。
ずっと下を向いたまま恥じらっていたメイベルは僅かに顔を上げてサファイアの瞳を眩しそうに見つめる。
大好きなアンソニー先生!私は間違いなくあなたに恋をしていました。
ううん、もしかしたらそう思い込んでいただけなのかもしれません。
ティムと出会って彼の真心を知った今、これが本物の「好き」っていう気持ちなんだって気づいたんです。
だから先生に対する想いは「決して手の届かない憧れ」だったんでしょうね。
それはそれで私にとってはかけがえのない思い出になりました。
だって先生に憧れなかったら、きっと私はティムへの気持ちに気づかないまま通り過ぎてしまったでしょうから。
大切な人との出会いを見逃さずに済んで本当に良かった。
すべて先生のおかげです。
だから先生、どうか幸せになってくださいね。
絶対ですよ!
何一つとして言葉にならなかったが、エメラルドの瞳は尊敬と憧憬に満ち溢れ、どんな台詞よりも雄弁に感謝の気持ちを伝えていた。
アンソニーも彼女の表情から何かを感じたのだろう、教え子の肩にそっと触れ、「君の未来が幸せで満たされますように・・・」と優しく微笑んだ。