アンソニーVSテリィ in 聖ポール学院   

~最終話・その1~

 



「なんだって~!キャンディに何でそんなこと言ったんだ?」

アーチーの絶叫がこだまする。
その日の夕方、アンソニーがコーンウェル兄弟の部屋を訪れたのだ。

「『帰国しないでここに残ってもいいよ』だって?もし彼女がホントにそうしたら・・・どういう意味か分かってんのか?」
「まあな」

全てを覚悟しているアンソニーは、穏やかな顔でサラッと言う。
頭から湯気が吹き出ているアーチーとは対照的だ。

「まあな、じゃないよ。ったく~、これだからテリィに先を越されるのさ。呑気にも程がある!」
「だって彼女の気持ちが他にあるなら仕方ない」
「甘い!はっきり問い詰めたわけじゃないんだろ?『僕とテリィのどっちを選ぶのか』って、徹底的に聞き出すべきだよ。僕ならそうするね」

息巻く弟の肩を掴むと、ステアは脇へ押しのけた。

「どうするかはアンソニーが決めることだ。違うか?」
「だって兄貴~、僕はイヤだぜ、キャンディがあんな野郎と一緒に残るなんて。あの子が好きになった相手がアンソニーだからこそ、僕は、僕は・・・」

それ以上言えなくなったアーチーが泣きそうな目で兄に訴えると、ステアは静かに先を続けた。

「アンソニー、お前、本当にいいのか?キャンディをアメリカに連れて帰らなくて」
「ああ。もう諦めはついたつもりだ。それにテリィだけど、見かけによらずいい奴だったよ」
「へえ?」
「あいつ・・・何て言ったと思う?『キャンディにはフェアで行こうぜ』、だってさ」

兄弟は同時に驚いたような顔をした。

「あのテリィがか?」
「そうだ。意外だろ?」

これには、ステアよりもアーチーの方が早く反応した。

「あのキザ貴族がね~。信じられないなぁ。どんな卑怯な手を使ってもキャンディを奪うような奴だと思ってたのに」
「もしそんな男だったら、もともとキャンディは好きになったりしないよ。そう思わない?」

「一本取られた」という顔をして、アーチーは恥ずかしそうにうつむいた。

「そういうことだ。アンソニーが認めたんなら、僕らだって認めざるを得ないだろう?テリィの人格も、キャンディが彼を好きなことも」

なだめるように肩へ手を廻す兄の傍らで、アーチーはホーッと深いため息を漏らした。



そして翌朝、礼拝の後──珍しい顔を偶然見つけたアーチーは、アンソニーとステアに「先に寮へ帰っててくれ」と言うと、「彼」に向かって真っ直ぐ歩を進めた。

「やあ!君がこんな所に顔を出すとはね。どういう風の吹き回しだい?」
「それはこっちの台詞さ。わざわざ俺に声をかけるなんて、どういう風の吹き回しだい?」

アーチーの眉が一瞬ピクッと動いた。

(この野郎!いきなりケンカ腰か。今日は穏便に話をしようと決心してきたのに)

ムスッとして何も言わない相手を前に、テリィは少しばかりイラついた。

「ちょっと急ぐんでね。用がないなら失礼したいんだけど、よろしいですか?」

またまた気に食わない台詞が脳天を刺激して、いつものように怒りがこみ上げてきたが、グッと呑み込んでアーチーは耐えた。

(こいつだって本当はいい奴なんだ。でなきゃ、キャンディは好きになったりしない。彼女が惚れた相手なら許せる!いや、許さなきゃいけないんだ。アンソニーがそうしたように・・・)

唇を噛みしめたまま、黙って右手を差し出す。

「な、なんだい?これは」
「見りゃ分かるだろ?握手だよ、握手」
「それは分かるけど・・・一体どういう意味だ」
「君がどう取ろうと構わんさ。でもこれは僕の気持ちだ」
「・・・!?」
「知っての通り、僕らはもうすぐ帰国する。勿論アンソニーも一緒だ。でもキャンディだけは恐らくここに残るだろう。なぜ残るかは・・・分かってるんだろ?だからお願いしたい。キャンディを頼む。あの子がずっと幸せでいられるように、いつも守ってやって欲しい」

一挙にまくし立てた後、何故かアーチーは下を向いた。
テリィの目を正視するのが怖かったのかもしれない。馬鹿にするような一言が返ってきたら、その時こそ自分が彼に何をするか分からなかったから。

「承知したよ、心配するな」

静かな声と同時に、温かい右手が力強く握り返してきた。
アーチーは思わず顔を上げ、「ありがとう!」と返す。
本当はもっと言いたかったのに、それ以上は声にならなかった。
だがそれだけで十分だったろう。
万の言葉にも勝る真実が、そのたった一言に込められていたから。




アメリカに帰国するメンバーは、結局、コーンウェル兄弟にアンソニー、ニール、イライザ、アニーの6人に決まった。
当初はアードレー家の5人だけだったが、急遽アニーが加わったのだ。
もともと彼女にとってロンドン留学は、「アーチーを追いかけてモノにすること」が目的だったから、一人残っても意味などないだろう。

その一方で、アメリカ人でありながら皆と一緒に帰国しないキャンディは、周りから変な目で見られていた。
怪しまれないように用意された大義名分は──「レディになるための作法を、もう少し極めたい」
果たしてこれで納得してもらえるのかどうか・・・

ともかく、日は確実に流れていく。
帰国まであと3日に迫った頃、有志による「お別れダンスパーティー」が企画された。
僅かの間でも一緒に机を並べた6人との別れを惜しむためだ。
キャンディとパティは帰国組を送る側として、準備に加わっていた。



「どうなんだい?パーティーの準備は着々と進んでる?」

二人きりで過ごす昼休み。にせポニーの丘で、テリィが聞く。

「ええ、まあ」
「なんだ、浮かない返事じゃないか。君がそんなに沈んでるのは、準備が思うようにはかどらないせい?それともアンソニーと別れるのが辛いから?」
「テ、テリィ!!」

ムキになるキャンディを予想していたように、抑えた笑い声が漏れる。

「君って分かりやすいよね。言葉で言わなくたって、その顔を見たら全部分かっちゃうよ。今何を考えてるか」
「そんなわけないわ」
「ほお~。じゃあ当ててみようか?」

キャンディは黙ったまま唇を尖らせた。

「アンソニーのことが気になってしょうがない。もう結論は出したはずなのに、いつまでも頭から離れない。それに、引っ掛かってることもある。怖くて確かめられないけど」

キャンディは驚いてテリィを見つめる。

(この人、気づいてるのかしら?スコットランドの森のこと。あの時助けてくれたのがアンソニーじゃないかって、私がこだわってるのを)

「どうだい?図星じゃありませんか、お嬢様」

テリィは穏やかな顔でキャンディのそばかすを覗き込み、そして笑う。
以前の彼なら目くじらを立てたのに。
アンソニーのことを話題に出そうものなら、露骨に不機嫌になってそっぽを向いたのに。今は自分から話を持ちかけてくる。
一体何のために?それにそこまで彼の気持ちを軟化させたのは、一体誰?
キャンディは不思議に思いながら、greenish blueの瞳を見つめた。

「俺のことなら気にするな。納得できるまで、じっくりアンソニーと話し合えばいい。その結果、もし君の気持ちが変わったとしても、恨んだりしないよ」
「でもあなたがいるのに、パーティーでアンソニーと話なんか出来ないわ」
「心配するな、俺は参加しないから。あ、誤解しないで欲しいけど、別にあいつと会いたくないわけじゃないんだ。俺がいると、その・・・邪魔だろうからさ」

テリィは立ち上がり、芝をパンパンはたいて上着を肩に引っ掛けた。

「もう時間はないんだぜ。このパーティーが終わったら、次の日、彼は『船上の人』だ。チャンスは一度きり。しっかりやれよ!」

(テリィ・・・ありがとう)

涙が出そうなほど、彼の真心が嬉しかった。
言葉にならない感謝を胸に秘めたまま、キャンディはいつまでも黒いジャケットを目で追い続けていた。




その頃アンソニーは、叔父の隠れ家を訪ねていた。
今日は「動物園の飼育係のアルバート」ではなく、「アードレー家当主のウィリアム・アルバート」に会いに来たのだ。

ロンドン郊外に構える豪華なマンションの一室。
玄関に通されると、ジョルジュが控えていて「ようこそ、アンソニー様」と丁重に頭を下げた。
促されるまま「当主」の部屋へ入ると、待ち構えていたアルバートが「やあ!そろそろ来る頃じゃないかと思ってたんだぞ」と陽気に笑う。

決して華美ではないが、趣味のいい調度品や手入れの行き届いた家具が、この人物の威光を物語っている。
ここはまさにウィリアム・アードレーの空間だった。

「いきなりで申し訳ないんですが、時間がないので単刀直入に聞きます」

思いつめた顔の甥に、叔父は「なんだい?」と先を促す。

「帰国の命令にはあなたも一枚かんでるそうですが、それは誰のためですか?」
「おいおい早合点するな。一番の理由は国際情勢だよ。知ってるだろ、このところの不穏な空気を」
「ええ勿論。いつロンドンが戦渦に巻き込まれるか分からない。ここに残ってると危険なことは確かです。でもそれだけじゃないでしょう」
「察しがいいな」

アルバートはニヤッと笑い、ロッキングチェアーから立ち上がると窓辺に歩いていった。

「帰国の案を出したのは、君ら三人のためだ。何かきっかけがないと、あの子はずっと結論を出せないだろう。悩む姿をこれ以上見たくないし、振り回される君とテリィを見るのも辛いからな」
「そういうことですか・・・」
「どのみちキャンディは二人のうちどちらかを選ばなきゃいけない。なら、決断するのは早い方がいいと思ってね。ズルズルするだけ傷が深くなっていくからさ。振られる方は勿論、振る方だって・・・」

伊達に歳は取っていない。達観した叔父を見上げ、アンソニーは「さすがですね」と感嘆の眼差しを送った。

「感心するのはまだ早いぞ。是非とも君に言っておかなきゃいけないことがある。アードレー家の年長者として、恋愛の先輩としてね」
「?」
「君は既に身を引く覚悟を決めてるんじゃないか?僕の考え違いでなければ・・・そうだろ?」

何で分かるんだ、と言いたげに、甥の青い瞳は一瞬揺れた。

「勿論立派なことだよ。だがね、そばにいて見守るのも大切な愛の形だ。それを忘れちゃいけない。そもそも君は彼女の気持ちをはっきり確かめたのか?本当に自分よりテリィの方が好きなのか、キャンディの口から聞いたのかい?」
「・・・・・・!!」
「その様子じゃ早合点って感じだな。自分の勘だけで結論を下すのは良くない。もう取り返しが付かないから」

青ざめて震えるアンソニーは、小さく「キャンディ」と呟いて拳を握った。

「言いたかったのはそれだけだ。君が現れなかったら、僕の方から訪ねていくつもりだったんだよ」
「ありがとう、アルバートさん。とにかく後悔が残らないように努力する。今度のダンスパーティーで彼女に真意を聞いてみますよ」
「それがいい」

頭を深く下げて暇乞いをし、部屋を出て行く甥をアルバートは見送った。
その背中に、自分の若い頃が重なる。


あれはもうすぐ二十歳の誕生日を迎える頃──僕には好きな女性がいた。年上の美しい女(ひと)だった。
でも大おば様に猛反対されてね。
「結婚するには若すぎる」「アードレー家の跡継ぎに相応しい女性ではない」・・・とか何とか。
結局僕は中途半端な形で身を引いてしまったんだ。「僕と一緒にいると、あなたは不幸になるだけ」って説得して。
風の便りに聞いたけど、その後何年かして彼女はアードレー 一族の男と結婚したそうだ。ショックだったね。
その時思った。なぜあの人のそばに留まって愛を貫かなかったんだろうって。身を引くのが卑怯者になる時だってあるんだ・・・それを初めて知った。
12歳のキャンディと再会したのはその直後だ。
レイクウッドのアードレー家領地で、滝つぼに落ちた彼女を救ったのさ。
あの子に会って、何故か癒されたよ。
だからアンソニー、キャンディのためにも強くなれ!僕の代わりに彼女をずっと見守って欲しいんだ。
真実を確かめるまでは、絶対に身を引くべきじゃない。


アルバートさんの恋のエピソードは、全て拙作のオリジナルです。原作には一切出て来ないフィクションなので、どうぞご了承くださいませ)




そして帰国が明日に迫った夜、「お別れダンスパーティー」が開かれた。
場所は男子寮のカフェテリア。
シスターグレーの許可が出ているので、今夜だけは堂々と男女が一同に会せる。
奇麗に飾り付けされた会場は、いつもの殺伐とした雰囲気とはまるで違っていた。
男子はタキシード、女子はパティードレスに身を包み、精一杯オシャレして異性の目を惹きつけている。

天井から降りてくるクリーム色の明るい光が、踊るアーチーとアニーを照らす。
隙のない身のこなしでアニーをリードするアーチーは、さすがに貴公子。
羨ましそうに見つめている他の女子の眼差しを感じて、アニーは誇らしかった。

少し離れてニールとルイゼ。
女の子に慣れていない様子のニールは、踊りにくそうに体をクネクネさせている。何をやらせてもしまりがない。

その隣にイライザとジョナサン。
アンソニーもテリィも諦めた彼女は、次なる標的を、ニールの取り巻きのジョナサンに絞ったようだが、彼の方は相当迷惑しているようだ。イライザの恋はやはり前途多難か?

そしてステアとパティが名残惜しそうにステップを踏む。
明日は別れ別れになる二人は、一瞬たりとも無駄にしないつもりで互いを見つめた。

「今度はいつ会えるの?」
「ほんのしばらくの辛抱さ」
「ほんのしばらくって、どれくらい?」
「それは聞かない約束だろ?辛くなるから」
「ごめんなさい・・・」

うつむいたパティを、ステアはそっと抱きしめる。
そのまま体を離さず、ダンスのメロディーに合わせて、二人はずっと揺れていた。

そんな彼らを、隅っこの壁に身を寄せて、じっと見詰めるキャンディの姿がある。

(ステアとパティ・・・何て素敵なんだろう。たとえ今は離れ離れにならなきゃいけなくても、いつか必ず再会する日が来るんだわ。でも私は・・・)

そう──私は、今別れたらもう二度と会えない。「恋人の」アンソニーには!

彼にまた会える日は確かに来るだろう。でも、その時にはもう、アンソニーはキャンディにとって「ただの親族」に過ぎないのだ。その事実を認識したとき、キャンディは愕然とした。

青ざめた顔を上げて周りの様子を見回すと、女子たちに代わる代わるダンスの相手をせがまれるアンソニーの姿が目に入った。
彼がいよいよ帰国してしまうので、叶わなかった想いを最後に告白しようとする乙女が殺到したらしい。
断るに断れない状況で、アンソニーは困った顔をしている。
そのそばに、キャンディは一歩も近づけないでいた。

「あれ?キャンディは指をくわえて見てるだけか、アンソニーのことを」

真っ先に状況を読み取ったのはアーチー。

「そんな風に見えるわね。かわいそうに・・・。キャンディだって本当は未練が残ってるはずよ、彼に対して」

アニーも気の毒そうに「壁の花」を見つめた。

「ごめん、ちょっとここで待ってて。邪魔者を蹴散らしてくるからさ」

そう言うと、アーチーは近くにいたクラスメートにアニーのエスコートを任せると、アンソニーのところへ大股で近づいていく。

「さあ、どいたどいた!男はこいつだけじゃないんだよ。大勢で一人を囲んだって無駄なことさ。ダンスは二人きりで踊るもんだろ?パートナーが何人も群がったら、アンソニーは困っちゃうよ。相手は僕が引き受けるから、あっちへ行こうぜ」

いきなり割り込んだ闖入者に目を白黒させながら、女の子たちは強引にホール中央へ押しやられる。そんな様子にステアも気づき、パティに「ごめん」と目配せした後、アーチーに加勢する。

「さあ、お相手はここにもいるよ。みんなで楽しくやろう!」

ステアの合図で他の男子生徒も集まり始めた。
そして次々に女子たちの手を取り、ワルツの曲に合わせて体を揺らす。

あっけに取られているアンソニーの背中を押したのはアーチー。
「何やってんだよ。お前のパートナーはあそこだろ?しっかりやれ!」

彼の指差す先には、心配そうな顔でずっとこちらを窺っているキャンディの姿があった。

「バルコニーには誰もいない。二人きりになるには絶好の場所だと思うけど」
ウィンクするアーチーに、アンソニーは心の底から感謝した。
「ありがとう。この恩は一生忘れない」

そしてキャンディのところまで走っていくと、「こっちへおいで」と言いながら、小さな手を握り締めた。

「どこに行くの?」
急な出来事に顔を赤らめながら、彼女はブロンドの前髪を見上げる。
「バルコニーだよ。君を誘拐しようってわけじゃないから心配しないで」
「まあ、アンソニーったら」
キャンディは初めて笑った。

バルコニーに立つと、夕風が体にまといつき、肌寒さを感じる。

「そのドレス・・・緑色のイブニング・・・懐かしいね。君が養女になったお披露目のパーティーで着てた。ラガン家の人たちを招いたあの時に」
「よく覚えてるのね」
「イライザが悔しそうな顔してたからなぁ。君があまりに奇麗なんで」
「そ、そんなことないわ!」

頬を赤くして、照れ隠しにホール中央へ目をやる。
何人かの女の子がこちらをチラチラ見ているのが分かった。

「あの人たち、アンソニーを気にしてるんだわ」

独り言のように呟くキャンディに、「そんなことないと思うよ」と声が返ってくる。
それを否定して、彼女は夢中で頭を横に振る。

「そうよ、そうに決まってる。でなきゃ、あんな熱心にこっちを見つめたりしないわ」
もう一度女性陣を見、間髪を入れずに彼女は言った。
「モテるのね」

その瞬間、嫉妬に燃えた青い目がキャンディを見つめ返し、「モテるのはそっちだろう?ステアもアーチーも君にぞっこんだった。それに勿論テリィも。だから僕らは別の道を行かなきゃならなくなったんだ。違うかい?」と、珍しく語気を強めた。
「だって・・・ここに残れって言ったのはあなたよ」

少しだけ気まずい空気が流れた後、キャンディはボソッと呟く。
「レイクウッドは良かったわ」

「あの頃に戻りたい」と言いたかった。でも言葉に出来ない。
もし言ってしまったら、ここに一人で残るのは無理・・・そんな気がした。

「僕だって懐かしいよ。出来るならもう一度君とバラの門に立ってみたい。満月の夜、一緒に馬で駆けてみたい。そしてポニーの丘に上りたい・・・」
「・・・!!」
「約束したろ?きつね狩りの日、僕が落馬する直前に。君と一緒にポニーの丘を駆け上ろうって。もう忘れちゃったかな」
下を向いたアンソニーは、寂しそうにふっと笑った。
その横顔がキャンディの胸を鷲掴みにする。

「忘れるわけない!あの日からずっと待ってたんだから。あなたが無事に帰ってきて、ちゃんと約束を果たしてくれるのを。でも・・・でも・・・いつまで待ってもアンソニーは帰ってこなかった」

エメラルドの瞳にじんわりと透明な滴が溢れ始める。

「すまない。悲しいことを思い出させちゃったね。僕が君に待ちぼうけを食らわせたのがいけないんだ。許してくれる?」

哀しい色をたたえたサファイアの瞳を見上げた途端、キャンディの心は不条理に絶叫した。

(なぜなの?アンソニーはちゃんと帰ってきたのに、どうして私は彼と離れ離れにならなきゃいけないの。何かが違う。違うのよ!)

丁度その時、ワルツの曲が変わり、二人の耳には聞きなれたメロディーが流れ始めた。
甘く切なく、懐かしい旋律。
それは、レイクウッドで二人が初めて踊った時に流れた曲。

「これは・・・!?」
キャンディは思わず身を乗り出す。
「これ・・・あなたと初めて踊った曲だわ。覚えてる?」
「忘れるもんか」

アンソニーの胸には、スカートで無邪気にターンを繰り返す可憐な少女の姿が蘇る。
いかにも使用人が着そうな、粗末な服で現れたキャンディだったが、着飾った貴婦人たちよりも、圧倒的な存在感があった。
あの場にいたどの淑女もかすんでしまうほど、彼女は心の芯をくすぐった。

「あの日、君は誰より素敵だった。豪華なドレスなんか着てなくたって、内側からキラキラ輝いてたんだ。初めてだったよ、ああいう女の子に会ったのは。だから僕は・・・」

一瞬目を細めたアンソニーは、彼女の前にひざまずく。

「踊ろう、キャンディ。僕たちのラストダンスだ」

差し出された掌に自分の掌を重ねると、彼の右手が腰をそっと引き寄せた。
ドキドキしながら体を寄せる。
アンソニーの顔が目の前に見えた。
ブロンドの前髪。男らしい眉。明るく澄んだサファイアの瞳。すっと伸びた鼻筋。優しげな口元。
全てがアンソニーだった。
そしてまたあの香りがする。
忘れようにも忘れられない、バラの甘い香り。

(バカね。私にはテリィがいるじゃない!こんな所でドキドキするなんてどうかしてるわ。明日になればアンソニーはアメリカへ帰るのよ。そうしたら・・・)

一瞬キャンディは視線をホールの中央へ向けた。
こちらを気にしている女の子がまだまだ沢山いるのが目に入る。

(アンソニーを好きになる女の子は沢山いるはずだわ。アメリカに帰ったら、ああいう子たちとあなたは踊るの?いえ、踊るだけじゃなくて、その子を好きになってキスして抱きしめて、そして、そして・・・)

キャンディはたまらなくなった。それ以上考えたら気が変になりそうだった。
ここに残るのがどういうことか──今初めてその「重さ」や「切なさ」を知った気がした。

「イヤよ、そんなのイヤ!」

もはや制御の利かなくなった彼女は、泣き出してしまう。
何が起こったのかわからないアンソニーは戸惑うばかり。

「どうしたんだい?何か気に触ることでも言っちゃった?」
「違うの」
「じゃあ落ち着いて。僕の顔をまっすぐ見てごらん」
それでもキャンディの涙は洪水になって次から次へと溢れてくる。
「泣いてちゃ分からないよ」

優しい瞳が間近に迫った途端、彼女は堰を切ったように叫んだ。

「イヤ!あなたが他の誰かを好きになるなんて。もう手の届かない所に行っちゃうなんて」
「僕は誰も好きになったりしない。恋は君が最初で最後だ。約束する」
「ホントに?」
「ホントだよ」

同時に、いさめるような心の声がむくむくと湧き上がってくる。

(今更アンソニーに何を誓わせるの?あなたにはテリィがいるのに、「他の人を好きにならないで」なんて、よくも言えるわね)

キャンディは自分が何て自分勝手か思い知り、あまりの恥ずかしさに下を向いてしまった。

すると、両方の頬をアンソニーの手が包み込み、そっと顔を上に向ける。
次の瞬間──身をかがめた彼が、自分の唇をキャンディに重ね、優しくついばむように求めてきた。
肩を抱かれ、体を寄せ合い、身も心も溶けてしまいそうな幸せの空間におちていく。

「好きだ!初めて会った時からずっと。このまま僕と一緒に・・・一緒にいてくれないか」

感情を抑えられなくなった手は、よりきつく、より激しくキャンディの細い体を抱きしめる。
近づけた鼻先で、赤みがかったブロンドの後れ毛が、かすかな香りを漂わせる。
アンソニーは欲望と理性の狭間で必死に闘いながら、彼女を感じた。

一方キャンディは、息苦しくなるほどの抱擁の中で真実を知った。

(このキス──森でされたキスと同じだわ。優しくて温かくて、しかも情熱的で。そして私を抱き抱えてくれた強い腕も、全部あの時と同じ。もう間違いない。あれはあなただった・・・アンソニーだったの!)

「ごめん、こんなことして。それに無理なこと言ったり。もう二度と困らせないから安心して」

(もう困らせてはくれないの?もう二度と触れてくれないの?そんなのイヤよ。もっともっと困らせて悩ませて欲しいのに。あなたは私の本当の願いを分かってくれてない・・・)

涙で潤んだエメラルドの瞳がアンソニーを見上げた。
彼女は何も言わない。いや、言えない。
熱い想いを胸に秘めたまま、彼の唇をじっと見つめている。

「キャンディ?」

アンソニーのかすれた声が寂しげに揺れて、耳元をくすぐる。
あまりの切なさに耐え切れなくなり、彼女はアンソニーの腕をすり抜けた。
そしてドレスの裾を引きずったまま、小走りにホールを駆け抜ける。
途中何度もつまずきそうになる。
何人かにぶつかってよろけそうにもなった。
何が起きたのだろうと、好奇の目を向ける生徒たちが後を絶たない。

走りながら、キャンディの頭の中には次から次へと昔の風景がフラッシュバックした。
走馬灯のように駆け抜けるレイクウッドの思い出。

イライザやニールにいじめられて泣いた日々
アンソニーと初めて出会ったバラの門
ステアやアーチーと楽しく過ごした午後のひととき
スイートキャンディをプレゼントされた誕生日
アンソニーと二人、馬で駆け抜けた満月の森
頬にされた可愛いキス
運命のきつね狩り・・・

どんなに辛くても悲しくても、そこにはいつも三銃士の支えがあった。
打ちのめされそうな日も、彼らの笑顔が優しく包んでくれた。
そして初めて知った不思議な気持ち──
胸の奥深い所がキュンと締め付けられるような、甘酸っぱい想い。
それは、アンソニーが教えてくれた初恋だった。

(私がアードレー家の養女になって今ここにいられるのは、アンソニーたちがいてくれたからなんだわ。人を好きになるってどんな気持ちなのか、その優しさを教えてくれたのもアンソニーだった・・・)

ズキンとした胸の痛みと共に、キャンディは今やっと、大事な事実を認識した。

ホールの出口に辿り着く。
やっとの思いで扉を開けて外へ出ると、そこにはテリィの姿が──

「ちょっと心配になってな」

驚いて見上げた瞳からは、後から後から涙が溢れ、頬は洪水に遭ったように濡れている。

「一体どうしたんだ。何があった、キャンディ?」

思わず身を乗り出し、彼女の細い手を握り締めるテリィ。

「アンソニーだった・・・。アンソニーだったの!森で私を助けてくれたのは」

一杯の涙を瞳から滴らせて言うと、それきりキャンディはうなだれ、テリィの目を見ることが出来なかった。

「良かったじゃないか、真実が分かって」

搾り出すような低い声が静かに響く。
全てを察した彼は、力なくキャンディの手を離すと、寂しそうに笑った。




そして遂に、アンソニーたちがアメリカへ発つ日がやってきた。
夜通し眠れなかったキャンディは、早々に着替えてベッドに腰掛けている。
かと言って何をするわけでもなく、何度もため息をつきながら足元を見つめているだけ。

ノックの音が聞こえる。
ビクッとしてドアの方を見る。
機械的に立ち上がって歩いていくと、ドア越しにアニーの声が聞こえた。

「キャンディ、起きてる?」

開けてみると、そこにはステアとアーチーの姿も見える。

「ごめん、朝早くから。でも出発前に顔を拝んどこうと思ってね」
アーチーが申し分けなさそうに言う。
「私の方こそごめんなさい。本当は港まで見送りに行かなきゃいけないのに」
そう言ったきり、また下を向くキャンディ。

「気にするなって。君の気持ちはよく分かってるから。それにアンソニーだって辛いはずだよ。別れ際にキャンディの顔を見るのはね」
ステアが静かに笑った。

そういえば「彼」だけがいない。
もうとっくに覚悟は出来ていたはずなのに、アンソニーとの関係が、ステアやアーチーとのそれとは別物になってしまったことを改めて思い知らされ、キャンディは絶望した。

「アンソニーは一足先に港へ行ったわ」
アニーの声が、慰めるように響く。

「そう?そうなの・・・」

「じゃ、船の時間があるから僕たちは行くよ。もう一度言っとくけど、帰りたくなったらいつでも帰ってこい。大歓迎だから」とアーチー。
「テリィも一緒にアメリカへ来る・・・なんてことになったら尚嬉しいよね、キャンディにとっては」
今度はステアがニッコリ微笑んで言った。

「ありがとう、みんな。いつか向こうで再会できるのを楽しみにしてるわ」
キャンディも微笑み返し、別れの挨拶は終わった。

皆が行ってしまった後、閉まったドアをいつまでも見つめている自分が不思議でならなかった。
今更どうにもならないのに、「青い澄んだ瞳」が頭にちらつくことが、不思議でならなかった。

いても立ってもいられなくなり、キャンディはドアを開け放つ。
そして無我夢中で廊下を走り抜ける。
着いた先は、まだ朝もやが漂うアンソニーのバラ園。
主(あるじ)を失った秋バラたちが、寂しそうに風になびく。
これからは一体誰が手入れをするのだろう。
放っておいたら一本残らず枯れてしまうのだろうか。
そんなことを考えているうち、鮮やかに蘇ってきたのは「去年の秋」。

アンソニーを失ったバラたちが、次々に舞い散っていったバラの門。
やがて季節は秋から冬へと移り、一面の雪に埋もれたレイクウッドの銀世界。
愛する人はもうこの世にいないのに、それでも無情に時は刻まれていく。
その事実を受け入れた時、キャンディはロンドン行きを決心した。
それが一年前のこと──

(ううん、違うわ。アンソニーは生きてる!死んでなんかいない。生きて私のところへ帰ってきてくれた。それなのに、なぜ私はここにいるの?どうして彼と別の場所で生きていかなきゃいけないの?)

とめどなく流れる涙が頬を濡らした時、頭上から気障な台詞が降りてきた。

「どうしたんだい、お嬢さん。こんなところでお散歩かい?」

見上げなくてもすぐに分かった。声の主が誰であるか。

「こんな時にからかわないで」
泣き笑いしながら目をゴシゴシこすると、テリィはあっと言う間に木の上から飛び降りていた。
「いつまでグズグズしてるんだ。君はアメリカ人じゃなかったのかい?自分の国に帰るのは当たり前だろ?もうすぐ船が出るんだぜ。こんな所でのんびりやってる場合じゃない」

「え!?」

予想もしなかった言葉に驚くキャンディ。

「ずっと引っ掛かってたんだ。100のうち99までは俺の勝ちだけど、あいつに勝てないことが一つだけある。何だと思う?」

キャンディは首をかしげた。

「君が苦労した時代をあいつは知ってる。レイクウッドっていうところで、辛い目に遭ってた時、いつもそばで見守って救いの手を差し伸べたに違いない。あいつはそういう奴さ。だけど俺はその時のキャンディを知らない。出会った時は、もうすっかり『何不自由ないお嬢様』の君だったからね。だから悔しかった。あいつには勝てないと、いつも心の底で焦ってた」

テリィは自分に言い聞かせるように続ける。

「今度のこともそうさ。スコットランドの森で、あいつは君を一番に見つけたのに、黙ったまま手柄を俺に譲り、自分は陰で一人耐えた。誤解を解こうと躍起になったりはしなかった。そんな奴だからこそ、君は惚れたんじゃないのか?」

キャンディは微動だにしないまま、テリィの言葉をじっと聞いていたが、「でも私がアメリカへ行ったらあなたは・・・」と、小さく呟く。

「俺なら心配いらない。もう子供じゃないんだから。君一人くらい失っても、どうってことないよ」

(君一人くらい・・・?そうさ、たかが君一人さ。でもその「たった一人」が、俺にはかけがえのない存在なんだ!離したくはない。命に代えても、アメリカへは行かせたくない。でも・・・)

とんでもない強がりを言った後で、テリィは自分の言葉に恐れおののいた。
本当はそんなこと、微塵も思ってはいない。
キャンディの存在は「自分の全て」と言ってもいいくらい、心の中に深くしみ込み、根を下ろしていた。
そんな大切な人だからこそ、哀しい顔を見せて欲しくはない。
それも同時にテリィの願いだった。
だからポーカーフェイスを決め込み、サラッと言ってのける。

「もうすねたりひねくれたり、周りを困らすようなことはしない。結局は自分が損するしな。前向きに生きてれば、いつかいいことがある・・・これは君が教えてくれた」
「ホント?」
「ああ」

テリィは前髪をかき上げ、空を仰ぐ。

「それにやりたいことも見つかった」
「良かったわ!一体何かしら?」
「今のところは秘密さ」
「私にも言えないようなこと?」
「まあね。いつかどこかで俺の活躍を見てびっくりするかもしれない。その時のお楽しみ、ってことにしといてくれ」

相変わらず自信たっぷりの口ぶりが可笑しくなって、キャンディはふふっと小さく笑った。

「分かったら、さあ、行けよ!今度こそ時間がないぜ」

追い立てる彼の顔を見たら、やはりたまらない気持ちになった。
これでお別れになるのだろうか。そしたらもう二度と会えない?
いざ失うとなると、テリィの存在が自分にとってどんなに大切だったか、痛いほど響いてくる。
思わず目を伏せ、こぼれ落ちそうな涙を隠す。

その時、大きな右手がいきなり頬に触れ、切なくかすれた声が耳元をかすめた。

「キャンディ・・・」

顔を上げるとgreenish blueの瞳が見つめている。
大好きな色。
出会ってから今日の日まで、ずっと見守ってくれた。
変わらぬ愛で、いつもいつも。
不良だとか問題児だとか、彼のことを悪く言う人は沢山いたけれど、
私だけは本当の彼を知っていた。
優しくて温かくて、誰より寂しがり屋のテリィ。
他の人には決して見せない顔を、私だけに見せた彼。
大好きだった・・・

栗色の髪が間近に迫る。キスをされるのだろうか。最後のキス?
キャンディは目を閉じ、静かに唇を待った。

(このまま口づけて、抱きしめて、メチャメチャに壊してしまいたい。俺だけのものにしたいんだ!)

誘われるようにキャンディの口元に唇を近づけた時、理性の歯止めがかかり、テリィは動きを止めた。

(いや、やめておこう。彼女はもう俺の手を離れていくんだ・・・)

薄紅色の蕾の、一歩手前で止まった自分の唇を、少し上にずらして彼女の額に触れる。かすかに優しく──

「忘れない。きっと一生。もし君が俺を忘れても」

握り締めた手をそっと離すと、テリィは小さな背中を押した。

キャンディは振り返って叫ぶ。目に一杯の涙をためて。
「テリィ、幸せになってね。私だって・・・あなたのこと忘れないわ。絶対に!」



これでいい。いいんだ、テリュース。
誰かのために犠牲になるなんて、今までの俺じゃあ考えられない芸当だけどな。
そうさせてくれたのはキャンディ・・・君だよ。
だからこそ失いたくはなかった。
たとえ君の心に他の男が住んでいようと、そばにいて欲しかった。
でも潔く身を引こう。
愛してるから・・・

これからは自分の道を走る。
他の誰にも真似できない、俺だけに約束された道──
走って、走って、走り続ける。
前だけを見て。
そしていつの日か頂点に立った時、幸せをつかめる気がするんだ。
それが君に出来る恩返し・・・そう信じてる。