RMTアラド戦記のブログ -2ページ目

RMTアラド戦記のブログ

ブログの説明を入力します。

【温故地震】都司嘉宣 貞観地震(869年) 百人一首に込められた教訓

(1/2ページ)

 百人一首に、清少納言の父である清原元輔(きよはらのもとすけ)が作った「契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑ(え)の松山 波こさじとは」という和歌がある。実は、この作品には千年に一度しか起きないような超巨大地震の教訓が織り込まれている。

 大まかな意味は「約束しましたよね、涙で濡(ぬ)れた袖を絞りながら。すゑ(末)の松山を波が決して越さないように、心変わりは絶対しないことを」で、破れた恋を嘆く切ない一首だ。この中の「末の松山」に注目してほしい。

 末の松山は、古くから和歌の題材とされた日本の名所旧跡を指す「歌枕」の一つ。その位置は諸説あるが、一般的には海岸から約3キロの宮城県多賀城市八幡にある小さな丘とされている。江戸時代に伊達藩四代藩主・伊達綱村(つなむら)が藩内の伝承を調査して判定した。

 こんな内陸には普通、波がやってくることなどあり得ないが、それをわざわざ和歌に詠み込むことに、どんな意味があるのだろう。

 和歌が詠まれたのは、村上天皇が梨壺(つぼ)の和歌所(どころ)を作った天暦(てんりゃく)5(951)年の直後と推定される。その約80年前の貞観(じょうがん)11(869)年、東北地方太平洋沖を震源に、平成23(2011)年の東日本大震災と酷似した「貞観地震」が発生。マグニチュード(M)8.4の強烈な揺れで、沿岸は巨大津波に襲われている。

【温故地震】都司嘉宣 貞観地震(869年) 百人一首に込められた教訓

(2/2ページ)

 当時の朝廷の公式な歴史書「日本三代実録」には、海岸から約5キロ離れ、現在の多賀城市西部にあった多賀城の城下町が浸水したとの記録がある。この状況からみて、和歌は貞観地震の巨大津波でも、末の松山は被害がなかったことを示していると理解できる。

 貞観地震と東日本大震災の津波浸水域は、東北大・菅原大助助教(津波・堆積学)が仙台平野の水田の地質を調査した結果、ほぼ一致すると判明している。そして東日本大震災では、多賀城市の多くが津波で浸水した一方、末の松山はぽっかりと浮かぶように、津波被害を免れていた。

 この事実も、貞観地震で末の松山が無事だったことの傍証になりそうだ。そして、その様子を目の当たりにした当時の住民たちから「末の松山は絶対に波が及ばない」という伝承が生まれ、これを清原元輔があり得ないことの例えとして和歌に詠み込んだのだろう,rmtssp

 日本を代表する和歌集の一つで、かるた取りでもおなじみの百人一首は貞観地震の教訓を示唆していた。このように、先人の遺訓が身近なものに含まれているケースは数多い。私たち子孫は、それらをきちんと受け止めなければならない。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)