「アメリカに、行きたか。」
「アメリカは、かっこよかぞ‼」
私の父は、71年前の8月9日、
17歳の時に 長崎市内の自宅で、
窓ガラス越しに、被爆しました。
父の名前は、長崎平和記念公園の
原爆死没者名簿に記載されています。
父は、私の母の2度目の夫ですから、
義理の父ということになりますが、
私に 原爆と、戦争の話を
たくさん してくれました。
上記の言葉は、亡き父の
生前の言葉です。
父は、特攻隊にも志願していました。
ですが、父は アメリカが大変 好きで、
スイス旅行から帰宅してから、
いつか、アメリカやカナダに、
旅行したいと、話しておりました。
父は原子爆弾の被爆が原因で、
肺に8㎝の癌ができ、
最期は、窒息して亡くなりました。
あの苦しみのさまは、
すさまじいものでした。
原子爆弾を産み出した人間に、
同じ人間が、あの断末魔の苦しみを
与えられたのかと思うと、
涙しか 出ません。
ですが、父は アメリカを恨むどころか、
憧れておりました。
「ニューヨークの自由の女神と、
ナイアガラの滝、見に行きたかよ‼」
(亡き父本人の言葉)
今日、アメリカ現職大統領として、
初めて、オバマ大統領が、
広島平和記念公園に、
献花に来てくださいます。
私たち原爆死没者家族は、
被爆地 ナガサキに 来てくださることと、
同じことだと とらえており、
被爆地 ヒロシマ訪問を、
うれしく、ありがたく思い、
感謝しております。
被爆地への訪問は、きっと、
回りから 大反対されたことでしょう。
名前を残す行為だなとど、
言われもしたかもしれません。
ですが、被爆地へ来てくださること、
来てくださること、そのこと自体が、
最重要なのです。
少なくとも、
被爆者本人である亡き父、
長崎の実家の母、私、
被爆2世のいとこ、
(いとこは原爆症で生死をさまよいました)、
は、アメリカを恨んでおりません。
憎しみからは、なにも産まれませんから。
長崎の母が、先日、
電話で 話しておりました。
「人間の足は、前に 歩くために、
ついとるとよ。
後ろには、歩ききらんたい。
目は、前を 見るために
ついとるとよ。
過去を見るためじゃなか。」
大切なのは、
三度 許すまじ。
3番目の被爆地が
つくられないことだと思います。

ヒロシマ、ナガサキの
すべての原爆死没者のかたがたに、
心からの哀悼の祈りを
捧げます。
合掌
