当たり前話し①〜人が持つ強力な大人の欲の話し〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

どうも、本ブログ管理人、うすワサビである。

 
統一教会の信者たちは原理武装と言って、極めて厳格な思想である統一原理によって、その考え方や行動様式に制限が加えられていた。

だから、統一教会では、この社会の当たり前が当たり前として通用しなかった。こうした信徒たちの信仰の態様を、当たり前の言葉で説明すれば窮屈であった。

統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である。


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そういえば、かつて統一教会では、人類の罪の根は人類の性的堕落であると言っていた。
 
人類始祖のアダムとエバは、天使長ルーシェルにそそのかされて禁断の実を食べたのだが、それが未成年でのセックスという性的堕落を意味していたという「おとぎ話」を教義の中心に持ってきていたのである。
 
しかし、そんなおとぎ教義には、一定レベルの説得力があった。
 
なぜならば、この社会には日々、性的犯罪が日常茶飯事にあり、不倫による離婚や家庭崩壊の問題なども枚挙にいとまがないからである。つまり、性の問題は人類の共通問題なのである。
 
だから、おとぎ教義は全人類の根本問題を扱える万能性があるように思われ、そうした性の問題を解決することは人類の使命なんだと錯覚した。少なくとも私は錯覚し、おとき教義を全面的に受け入れたのである。
 
しかし、考えてもみたい。
 
人類がこの地球に今こうして存在しているのは、自分たちではどうにもこうにも抑制することができない性の欲望を持っているからである。もし人類が聖人のようになって、そんな強力な性的本能が消失してしまえば、人類の血筋など、とうの昔に途絶えてしまっていたであろう。
 
どうも統一教会というのは、性の問題に苦しむ「どなたか様」が作り出した代物のような気がする。もちろん、この「どなたか様」は教祖も入るが、教祖以前の人物たちも入るであろうし、教祖以後の人物たちも入ることになるであろう。
 
人が持つ性的欲望が人類の根本であるのは確かなのだろうが、それを人類の根本の「問題」として恣意的に取り挙げて教義の中心にするのってどうなんだろうか。
 
人が持つ強力な大人の欲
 
そんなのは当たり前だい、そう。右足出して左足出すと歩けるのと同じくらい、当たり前なのである。