運命の人 2

運命の人 2

ブグ                    ツインソウルとは、もともと一つだった魂がこの世で魂を磨くためにより多くの経験を積んで、魂が進化を遂げるようにするために、この世に生まれる際に二つに分かれたものと言われているそうです。            

◇第83回アカデミー賞は2011年2月27日にコダック・シアターにて受賞式が行われました。主演男優賞受賞者はコリン・ファース(英国王のスピーチ)。彼のスピーチです。
★キャリアのピークを終えたと感じています。アカデミーに深く感謝します。(中略)私の感謝の言葉は出来る限り手短にしたいと思います。最初にこの才能高き俳優達の並外れたリストに載っていることに対して。これは非常に恐るべきことで、おそらくこれが最大の名誉です。私を応援してくれ家にいる全ての人々。(中略)そして、私の家系を構成するアングロ―イタリア―アメリカ―カナダ系に。そしてリヴィア、(中略)私の本当に良い事全ては彼女に会ってから起きた。さて皆さんにはすみませんが、舞台裏に行かなければならない衝動が来ました。ありがとうございます。                                                    ◇ オーストラリアのコメディアン、ジャーナリストであり、障害者人権活動家であるステラ・ヤング(1982年~2014年[動脈瘤の破裂により死去、32歳の若さでした])は障害に関するニュース、議論、意見を発信するオンラインスペースであるRamp  Upの編集者でした。彼女のスピーチです。
★私が育ったのはビクトリア州のとても小さな田舎町です。ごく普通に地味に育てられました。学校に通って友達と遊んで、妹達と喧嘩しました。まるっきり普通でした。私が15歳の時、地元コミュニティの役員から両親に連絡がありました。コミュニティの功績賞に私をノミネートしたいと言うのです。両親は「う―ん、ありがたいですけど一つだけ大変な間違いがあります。彼女には何の功績もありませんよ」と。(笑)両親の言うとおりだったんですよ。私は学校に通い良い成績も収めました。とても地味なアルバイトもしました。母の美容院です。(中略)両親は正しかったんです。並外れたことなんて何もしていなかった。障害を考慮に入れなければ、功績と呼べるようなものは何もありませんでした。何年も過ぎ、私がメルボルンの高校で教師2年目だった時のことです。2年生の法学の授業を始めて20分ほど経ったところで、男子学生が手を挙げて「先生、スピーチはまだですか?」と言いました。私は「スピーチ?」と返しました。だって20分も名誉毀損法の講義をしていたんですよ。この生徒は「あれですよ。やる気を起こさせるスピーチ。車椅子の人達が学校に来ると、だいたい感動的な話をするでしょう?」(笑)「いつもなら会場は大講堂だけど」と。これが私の最初の気付きでした。この子は障害者を感動の対象としか見たことがないんだと。この子にとって―もちろん彼のせいではなく、多くの人がそんな風に考えています。大多数の人が、障害者を普通の教師や医者やネイリストとは見ないものです。障害者は人として扱ってもらえません。感動を与えるための存在なんです。(中略)私がここに来たのは、私達が障害に関して騙されていたとお伝えするためです。そう、私達はずっと嘘を吹き込まれているんです。障害は完璧に悪いことで、疑いの余地も無いという嘘です。障害は悪いことだから、障害を持って生活するのは立派な人だということになります。障害は悪いことではないんです。だから立派だということもありません。(中略)こんな画像を見たことがあるでしょう。           



「人生における唯一の障害はネガティブな姿勢である」またはこちら「言い訳は通じません」確かにね。またはこれ「諦める前にトライしよう!」
ご紹介したのはほんの数例ですが、このようなイメージが氾濫しているのです。ご覧になったかもしれません。手が無い小さな女の子が口にペンをくわえて絵を描く姿。カーボンファイバーの義肢で走る子供。こんなイメージが実に沢山あります。私達はこれを「感動ポルノ」と名付けました。(笑)あえて「ポルノ」と言っているのは、ある特定の人達をモノ扱いして、他の人が得するようになっているからです。ですからこの場合、障害者を健常者のために利用しているのです。これらのイメージの目的は皆さんを感動させ、やる気を起こさせることです。ですから皆さんがこれを見ると「自分の人生は最悪だけど下には下がいる。彼らよりはマシだ」と。でも、もし皆さんが「彼ら」だったらどうしますか?知らない人が近寄って来て、私のことを勇敢だとか、感銘を受けたとか言ってこられた経験が数え切れないほどあります。しかもまだ有名になるずっと前の話です。あの人達はまるで私が朝起きて、自分の名前を覚えていたら賞賛するぐらいの勢いです。(笑)モノ扱いですよね。ご覧いただいた画像、このようなイメージは障害者を健常者のためのモノとして利用しているのです。障害者を見て、健常者が自分はまだ恵まれているんだと、自分の不安を客観視できるような存在なのです。障害者としての人生とは事実厳しいものです。(中略)私は自分の身体とずっと付き合ってきました。かなり気に入っています。私が必要なことをやってくれるんです。自分の身体の可能性を最大限発揮してくれています。皆さんと同じです。あの画像の子供達も同じです。特別なことなんて何もしていません。あの子達は自分達の身体能力を最大限に引き出しているだけです。では私達がやっているように、彼らをモノ扱いして画像をシェアするのは本当に正しいことなのでしょうか?周りの人達が「あなたは感動的だ」と言う時、もちろん賞賛しているのでしょう。そんなことが起きるのも嘘のせいです。私達は障害を持つことで、特別な存在になると思い込まされています。本当に違うんです。(中略)他の障害者の方々からはいつも学んでいます。でも彼らより恵まれているとか、そんなことではありません。私が学んでいるのは、天才的なアイデアです。落とした物を拾うのにトングを使うとかね。(笑)他には車椅子のバッテリーで携帯の充電をするという粋なアイデア。天才でしょ。私達はお互いの強みや忍耐力から学びます。闘う相手は自分達の身体や病名ではなく、私達を特別視し、モノとして扱う世界です。(中略)階段の昇降に苦労している時に、どんなに微笑んでも階段がスロープに変身したりしません。絶対に。(笑)(拍手)テレビ画面に微笑んでも耳が不自由な方のために字幕が現れたりしません。本屋の中でどんなに感じ良く立っていたところで、全ての本が点字に変わったりしません。そんなのありえませんよね。私が住みたいのは障害が特別視されるのではなく、普通だと思われる世界です。私が住みたい世界は、15歳の女の子が自分の部屋で座って「パフィー恋する十字架」を観ることが、偉業なんかじゃない世界。ただ座って観ているだけなのですから。私が住みたい世界は、障害者の人達にそんな低い期待を持たない世界。朝ベッドから起きて自分の名前を覚えている、そんなことで賞賛されない世界です。私が住みたい世界は我々障害者が、真の成果で評価される世界。私が住みたい世界はメルボルンの高校2年生が、新しく来た教師が車椅子に乗っていても微塵も動じない世界です。人を特別にするのは障害ではなく、障害に関する自分の知識が正しいのかどうか疑いを持つことです。ありがとうございました。(拍手)(大歓声)