僕には、好きな人がいる。でも、それを伝えることが出来ない。
僕の意中の人は、駅の近くのコンビニで働いている。小銭を渡すときに指が触れるだけで、僕の鼓動は高鳴った。その人は、淡々と業務をこなす。歯切れもよく、よく通る声だ。
「ありがとうございましたー」
彼女はそう言って、僕に向かって軽くお辞儀をし、笑顔を振り撒いた。
胸が、締め付けられるのを感じた。
営業スマイルだって言うのは分かっている。僕だってアルバイトはしているし、バイト先の女の子だって、何の疑いや抵抗もなくつくり笑顔をする。僕だって多少はある。
叶わない恋であることも、わかっている。片思いであることだって、そんなことは百も承知だ。
彼女の笑顔を見た瞬間は、とても幸せな気分になれる。幸せな気分で店を出るけれど、振り向いてウインドーに写る自分の顔が目に入ると、無理だということに、嫌でも気づかされる。
彼女のことが気になってからというもの、学校に行く日は毎朝、そのコンビニに立ち寄っていく。そんなことを重ねていくうちにそれが僕の日課となり、彼女に不振がられるのも嫌なので、好きでもない缶コーヒーを買っていく。財布には必ず、100円玉と10円玉は切らさず入っている。
最初は「袋にお入れしますか?」と聞かれたので、テープでいいよって言ってあげた。毎日のように行くようになってからは、缶コーヒーをレジに持って行き、彼女は何も言わずにテープを張る。彼女が両手を器のようにして差し出して、その上に120円を落とす。
僕が店内に入ると、彼女は笑顔で、いらっしゃいませと言ってくる。今では、店内に入っていく僕を認めると、にっこりと微笑んでくれる。それは、意思の疎通が取れているようで、僕はとても嬉しかった。
ある日、朝の楽しみを見に行こうとコンビニの自動ドアをくぐると、「いらっしゃいませ」と声がした。レジか聞こえたのは女の子の声だったが、彼女のものではなかった。
店内をぐるっと見回したが、彼女の姿はなかった。
今日は休みなのだろうか。アルバイトが一日の休暇をもらうことくらい、大して珍しいことではない。僕は明日は会えるのだしいいかという気になったので、いつものようにコーヒーをレジに持っていった。
やっぱり彼女の笑顔のほうがいいなと、レジの女の子に失礼なことを考えつつ、店を出た。
翌朝、コンビニの自動ドアが開いても、彼女の声は聞こえなかった。風邪でも引いたのだろうか。少し不安になったが、二日くらいはと思い、また明日来ることにした。しかし、彼女は次の朝もいなかった。
その次の朝も、そのまた次の朝も。週が変わり、今日はいるだろうと思って店内に入っても、彼女からのいらっしゃいませは聞けなかった。
僕は焦った。どうして焦る必要があるのか、他人からすれば気持ちの悪い話ではあるだろうけれど、僕は彼女にもう会えなくなるのではないかと思うと、その気持ちが胸を焦がした。
それからも二週間ほど、彼女の声が聞けるような気がして、僕の足は自然とコンビニの中に入っていった。それでもやっぱり、彼女はいないのだと、僕はそう思えるようになってきた。
彼女のいないコンビニで、好きでもないコーヒーを買っていたが、次第に縁遠くなっていった。駅前のコンビは、通り道にただあるだけの存在になっていった。
季節は変わり、外の風は少し冷たくなってきた。一枚多く服を羽織るようになり、街路樹の下は茶色の葉っぱが足元で音を立てるようになった。すっかり秋なんだなと、柄にもなく僕は、感傷に浸っていた。
今日は少し冷えるから、温かい飲み物を買おうかという気になって、僕は二ヶ月ぶりくらいに、駅前のコンビニに入った。「いらっしゃいませ」と、開くドアに反応して声が聞こえてきた。
ふと目をやると、レジの前に彼女がいた。そのときの僕は、どんな顔をしていたのだろう。きっと、目は飛び出るくらいに開いていただろう。
急に高鳴りだした鼓動を静めるように僕は、すぐ横にあった雑誌を取り上げて、読む振りをした。手にはびっしょりと汗をかいていて、運動をした後のように、異常なくらい自分の心拍数が上がっているのを感じた。
そのときの僕は興奮していたためか、何て声を掛けたらいいだろうかなどと思うようになっていて、思考が定まっていなかった。
しばらく冷静になるのを待っていたが、一向に僕の中の熱を冷やすことは出来なかった。それでも少しの冷静さは戻っていたのだろう、腕時計を見て、そろそろ電車に乗らないと遅刻するぞ、と僕の脳はそう言った。
意を決し、雑誌を元にゆっくりと戻した僕は、冷たい棚からコーヒーを一つ手に取った。
そして、レジの前にコーヒーを置いた。
コトリッ、と音がした。
他の音が聞こえなくなって、僕は乱暴に置いてしまったのかとさえ思ったほどだ。
「いらっしゃいませ」
彼女は、僕が足しげく通っていた頃となんら変わらないその声で言った。彼女を見ると、ひとつだけ変わった点に一目で気づいた。
二ヶ月ほど前の彼女は、すっと長い黒髪だったと思う。しかし、目の前の彼女は、肩より上でさっぱりと切り揃えられたショートヘアーだった。
それに気づいた僕は、自然と口が開いていた。「髪、切ったんだ」、と。
彼女は特に驚く風でもなく、「ええ」と言って微笑んだ。
「120円です」
バーコードを当てて、彼女は言った。僕は財布から120円を払おうとしたが、小銭は100円もなかった。仕方なく、1000円を彼女に渡した。すると、
「初めてですね」と言って、少し笑った。
「えっ」
僕は思わず聞き返してしまった。その時は、彼女が言ったことの意味が分からなかったからだ。
彼女は、「いつも、丁度渡してくださるから」と言い、また少し笑って見せた。
彼女は覚えていてくれたのだ。僕のことを。彼女が僕のことをどう思っているかは、その時はどうでもよかった。ただ、嬉しかった。
「どうして、しばらくいなかったんですか」
僕は口をついて聞いてみた。彼女は少しもどかしげに、「少し、体調を崩してしまいまして――」とだけ答えた。
僕は「そうですか」、とだけ言ってそれからは口をつぐんでし合った。話したいことはたくさんあった。でも、言葉が洪水のように流れてきて、何を話したらいいか分からなくなっていたのだろう。
僕は彼女からお釣りをもった。それから財布に入れるまでのほんの一瞬の間に、言葉の洪水の中から拾い集めて、口から出した。
「もう、いないんじゃないかと、思いました」
一語一語、区切って僕は話した。彼女に聞こえるようになのか、それとも、自分で確かめるようになのか。
僕は、言い終わると財布に彼女からのお釣りを入れた。
彼女は、僕の言葉には何も言わず、「ありがとうございました」とだけ言った。
僕は缶コーヒーを手にとって、そのまま外に出て行った。
外に出ると、少し冷たい風が僕の頬をそっと撫でていった。
ゆっくりと歩き出した僕は、手の持った缶コーヒーが冷たいことに気づいた。
「どうしてホットを買わなかったんだろう」
ポツリと呟いて、日課だったからね、と心の中で自分の独り言に突っ込みを入れた。
「お客様、お忘れ物です!」
不意に、背後からそんな声が聞こえてきた。上の空だった僕は自分に発せられているとは思わず、すぐ横から声を掛けられるまで気づかなかった。
そこには、彼女がいた。
別に忘れ物などした覚えはないのだが――彼女はすっと、一枚の紙を手渡した。レシートだった。
「お忘れ物ですよ」
微笑んでそう言った彼女は、さっき買ったコーヒーのレシートを手渡して、店のほうへ走っていった。
走っていく彼女の後姿を、僕はぼんやりと見つめていた。
彼女が手渡してくれたレシートに目を落とすと、確かに先ほど買ったコーヒーのレシートだった。
さっと人差し指と親指で折りたたむと、裏面に一行、番号の列が書かれていた。少しの間は何か分からなかったが、09から始まるその数列が、携帯電話の番号であることが分かった。携帯――。
しばらくその場に立ち尽くし考え――おそらくは数秒間だけだったのだが――、このレシートに書かれた番号の意味を知った。
意味を理解した瞬間、僕の脳は期待と嬉しさともつかない、奇妙な歓喜に支配された。
彼女が、僕を。そう考えるだけで、つい先ほどとはまったく別物の鼓動の高鳴りを感じた。
僕は彼女から渡されたレシートを握り締めて、駅へと駆け出した。
これは後から彼女から聞いた話なのだが、僕が彼女がいなくなったと思った数週間、彼女は本当に体調を崩していたらしい。
単身上京し、親からの仕送りはもらわず夜間の専門学校に通っている彼女は、朝方しか仕事が出来ず、早朝からのアルバイトをして学校までの少しの間だけ休む、といったような生活をしていたらしい。それがたたってか、体調を崩し、一ヶ月ほどの長期の休暇をもらっていたそうだ。この話を聞いたときには驚いたが、この話を僕に話しているときの彼女の顔は、とても嬉しそうだった。
そう、僕はあの後、レシートの裏の番号に電話をかけてみた。その番号は彼女の携帯電話のもので、僕が歯切れの悪いデートの誘いをすると、彼女はあっさりと承諾した。
そこからは何度も会うようになり、僕たちは付き合うようになった。
そうなってから彼女は、僕と出会ったときの事をこと細かに話してくれた。
毎朝、缶コーヒーを買っていく僕を覚えていったこと。買っていくコーヒーが、いつもまちまちなこと。お釣りはなく、いつも120円を丁度払ってくれること。いつも、このコンビニに寄って駅へ向かうらしいこと。
彼女も気にはなっていたようだ。
自分が長い休みから戻ってくると、この通を通るのに、コーヒーを買っていかない僕を、店内から眺めていたそうだ。
今となっては、それもいい思い出である。そう、お互いに。
生活がお世辞にも楽ではない彼女のために――僕も学生ではあるが――お互いに住んでいたアパートから出て、少し大きめのアパートへ引っ越した。親を説得するのは、かなり骨が折れた。
お互いに新生活が始まり、助け合っていこうと決めた。
そう、僕は彼女のことを何よりも大切に想っているから――。
そして彼女も、僕のことを大切に想ってくれるから――。
※この話はフィクションです。管理人の体験談でも、聞いた話でも何でもありません。