恵林寺で禅体験をしてきたのでその感想を書いていきたいです。

恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹であり、武田信玄が領地寄進を行い寺勢を強めたお寺です。

勝頼の敗北後には、織田信長の焼き討ちにあい、100名以上の僧侶が焼死したとされています。

その際に「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と現在でもよく知られている言葉を残したと言われています。

 

 

私たちが泊まって体験をしたのは、恵林寺に併設されている望月庵です。

めちゃめちゃ良かった…。料理も美味しかったし、みんなに良くしていただきました。

体験したのは写経、お茶、禅、精進料理です。お茶と禅を中心に感想を書いていきたいと思います。

 

 

そもそも禅宗は、達磨が仏陀の教えを引き継ぎ中国で発展し日本に伝わった仏教の一派です。そこから派生したものが臨済宗で、向かい合って座禅を組むのが特徴です。とにかく実践あるのみ!という宗派のようで、仏陀が行ってきた修行を改めて行うような、(12月1日から8日の日の出まで飲まず食わずとか)ハードウェイを行くタイプだそうです。

 

 

 

禅は、部屋を暗くして半目を開けて行われます。僧侶が禅問答に入るための準備として、線香が燃え切るまでの約45分間行うそうです。今回は短めに行いました。個人的には、起きているのに寝ているような状態になることが一番いい状態なのかなと感じました。監視カメラの映像をひたすら写し続けるモニターのように。

呼吸と姿勢に集中することで心を落ち着けて、脳に溜まっている膨大なキャッシュを消去していくようなイメージだと考えました。

 

攻殻機動隊でもタチコマがそんなことを言っているシーンがありましたよね。

「座禅って宗教的意味より寧ろ人間の業を雑念から解放する意味合いが強いんでしょ?」「僕達で言うと、溜まったキャッシュ上のデータを消去するって事かもしれないね。それと並列化を足したような意味かな」「じゃあ座禅を組んでる人と繋がったら、悟りがダウンロード出来ちゃうかも!?」

 

心の状態の把握→身体性の回復→悩みの分類(煩悩・怒り・妄想)によって現在の苦から解放

されることを目指し、身体性の回復のフェーズで禅があります。他にも登山やスポーツなどでも可能とのことで、はやり目的は身体を使い、一つのことに集中することで、一度悩みから距離をとることが目的だそうです。

禅を通して「本当はそこにあるのに、ないようにふる舞う」という教えが、テーマになりそうだと考えました。悩みはそこにあるのに、一度ないようにふる舞う。目から情報が入ってきているが、見ていないようにふる舞う。火で身体が燃えて熱いはずなのに、燃えていないようにふる舞う。これらのことが悟りを開くことに繋がるのかなと感じました。

 

お茶の体験も本当に新鮮で楽しかったです。動作ひとつひとつが洗練されており、連続性があり、見ていてもやってみても美しかったです。

お茶も、一連の決まった動作に注力することにより、お茶室の外で起こっていることから一度距離をとる効果もあるのかなと感じました。躙口から入ることにより、身分を一度リセットし、お茶を入れることや茶器自体を楽しむことによって、動乱の激しい戦国の世と一度距離を取り、脳内のゴチャゴチャを整理する。戦国時代にお茶が流行った理由がこの辺りにあるのかなということを思い出しました。(Podcast超相対性理論より)

 

 

アミニズムの自然や動物と人間を包括した考え方が、今回の体験で学んだことと近いと感じました。自然からすれば、人間は存在しているがいないようにふる舞うし、人間も自然を自分の一部と感じながら生活をする。存在しないようにふる舞うということは、断絶を意味するのではなく共存を意味します。

ここで思い出されるのが、『計算する身体』の「情はいとも容易く『私』の手元を離れてしまう。『私(ego)』に固執した『心(mind)』とは違い、それ(情)は自在に、自他の壁をすり抜けていく。」という一説です。自他の壁をなくすことと同様に、分厚い壁で人間の住む世界と自然を区別することが必要なのではありません。どちらも境界線を織り交ぜながら一部一体化することにより自他の区別をなくし、分断ではなく共存を生むこと。それが、そこにあるのにないようにふる舞うということではないのかと感じました。(誰かの考え方が自分の思考に入っていても、それはもうすでに自分の思考なのと同じ。)分人性を許容しながらそれも含めて『自己』であるという認識、人類のコモディティ化を目指したエヴァの思想に近いのかもしれません。

 

 

 

計算機としての動物である人間は、外部からの刺激を受けると、進化によって発達した無意識の思考(計算)の結果として、感情や情動が生まれます。紙とペンを使って計算するのではなく、単にその結果だけが感情として湧き上がります。(『ホモ・デウス-上』p .158)

あらゆる情報を無意識にキャッチしている我々は、その計算結果として無意識に感情だけが湧き上がります。情報量が増えれば増えるほど、感情や情動も増え続けます。そうした世界で自分ができるだけコントロールできる範囲を増やしていくことを望むのであれば、どのように無意識にキャッチしている情報を少なくできるかが重要になります。いきなり現実に思想を適応するとこんな解釈になるのかもしれません。

リラダンは『未来のイヴ』の中で、人間が作り出した機械の人間のことを〈電気人間ーエレクトロ・ユメーヌ〉と呼んでいますが、現状は、人間自身が自然淘汰による進化がもたらした計算機であると考えられる、なんとも皮肉な感じですね。

 

「本当はそこにあるが、ないようにふる舞う」

今回の禅体験を通して、ちょっと大きすぎる学びを得たような気がします。