自分は何でも出来ると思っていました。
自分は何者にも、なれると思っていました。
自分の気負い一つで、すべては変わると信じて疑っていませんでした。
物事が滞ったとき、うまくいかなかったとき、挫折を味わったとき。
それは自分の努力が足りなかったからだと、思っていました。
自分の精進が足りなかったのだと、自分がなさけなかったからだと、思っていました。
夢は大きく、しかし明確でした。
そのビジョンさえしっかり見えていれば、あとはそれに伴う、必要な努力を尽くせばいいと思っていました。
しかし夢が大きければ大きいほど、情熱を向ければ向けるほど、自分のすべてを傾けれれば傾けるほど、精神は確実に磨り減っているようでした。
物には振れ幅があるものです。
夢も、大きければ大きいほど、その代償となるものは大きいようでした。
けれど、若いということは、自分を試すことではないかと、わたしは思っているのです。
若いからこそ、自分の出来ることをやり尽くす、エネルギーのあるうちに、しがらみの少ないうちに。
しかしだんだん、年齢とともに、それは許されなくなっていきます。
守るべきものが増えていくから。捨て身でいられなくなるから。
安心できるものを得るから。
しかし同時に、保守的になる。
諦めることを知り、加減を学ぶ。適当、を本当の意味で調節するようになる。
でもそれが、大人になる、ということなのかもしれない。
大人は、いろいろなものを守っていかなくてはいけません。
今まで作り上げてきた論理を、自分の行き方を、そして子供の未来を。
そう、「自分」ではなく、「子供」に、次世代のためにエネルギーを取って置かなくてはならないのです。
精神は不思議なもの。
そして楽しいもの。
自分のためにエネルギーを使ったのだから、崩れても、それでも良かった。楽しかったのだから。
次は、未来のために、エネルギーを傾けよう。
それまで、しばらくの充電期間ですよ。精神病は、立派に生きた証。
たまには、そう思ってあげてもいいですよね?