「親に認めてもらうために優等生を演じた」とか「いじめてきた奴らを見返すために勉強して一流大学に入った」だとか、ありふれた話だ。


僕にはそれができなかった。僕はそれをやりたくなかった。


誰かから評価されるために努力する、その先に幸せなどないことをわかっていたから。


幸せは結局自分次第。


頭ではわかっている。


でも心が追いついていないようだ。


認められたい。赦されたい。そのためにもっと努力すればよかった。


心のどこかに負い目がある。自分は馬鹿でブスで落ちこぼれなのだから、せめて勉強やスポーツ、その他何かを必死に頑張って、他人に認められるだけの成果を出さなければならなかった。


無能なくせに認められるための努力さえしない自分はなんだ、そんな負い目。


僕と同じように劣等感を持っていながら、それをバネにして努力できる人。そういう人はある意味洗脳がうまくいった人なんだろう。


「幸せは他人の評価によって決まる。幸せになりたければ認められるしかない。そのための努力を惜しんではならない。」そんな洗脳。


生憎な事に僕は昔から自我が強く、「他人からの評価は砂上の楼閣にすぎない。他人の目を気にして生きても孤独になるだけ。自分の人生は自分で生きる。」ずっと、頭ではわかっていたんだ。


しかし洗脳は中途半端に効いてしまった。評価されるために努力しなくてはならないという強迫観念、自分らしく生きる事への罪悪感は真綿で首を絞めるようにじわじわと僕を苛み続けている。


もっとも、現代日本において僕のような悩みを抱えている若者は決して少なくはないだろう。訳もなく努力しなければならない、承認されなければならないという焦燥感。


(方向性を間違えてはいるが)幸せになるための手段が目的に刷り変わっている。


これを洗脳と言わずしてなんと言うべきか。


ときどき血迷ったことを考えてしまう。いっそおとなしく完全に洗脳されてしまえばよかったのに。


そうすればもっと努力できたのではないか。他人に認められるために、自分に箔をつけるために。そうすれば、ニセの幸せだとしても、親や同期に評価されて誇らしい自分でいられたのではないか。


それとも洗脳は十分に効いていたが、自分が無能なばかりに思うような評価を得られていないだけなのか?


考えたところでしょうがない。


「他人の評価などどうでもいい。自分を幸せにするのは自分。」これが自分にとっての正解である事は昔から変わらない。


正解が見えているのに、わざわざ逆方向へ向かう道理はない。


洗脳に負けるな自分。


馬鹿でもブスでも落ちこぼれでも、自分を幸せにしてはいけないわけねえよ。