古巣のマクドに到着して色々思ったこと
42年前(ふるっ)神戸のマクド三ノ宮センター街店で働いてました。父の転勤先が神戸だったのでくっついて来ました。最初は父だけ単身赴任したのですが母と私は建てたばかりの持ち家の千葉県に1年住んでました。両親ラブラブだから1年別居生活には耐えられなかったということです。必然的に私も神戸に来ました。そしてここ神戸で成人式を迎えました。でも、1年しか住めなかったのです。最低でも3年はいるのに2年で父は又、転勤。本当は辞めて都内に住むはずでした。家売って残ってる借金払い終えたかったのです。家のローン以外もたくさんの借金がありました。父と母の結婚は二人だけの生活費だけではなく貧乏だった父家族の生活費も父が負担してました。父が独学で私立じゃなく公立の大学に進学したのもそれです。早稲田や慶應とか受かったにも関わらず、お金無くて進学できなかったので1浪して横浜市立大に特待生かな?授業料免除で進学したのです。4年間勉学に励み、就職先がD生命でした。都庁も受かってましたが、当時の父側家族が少しでも給料の良いD生命にしたのです。そして、出世候補の父は母と籍入れて石川県金沢市に転勤しました。2年後、そこで私が産まれました。私を産んだために家族を守る父は頑張って自分の親や小さな妹兄妹のために働きました。しかし、限界もあります。仕送りできないと、東京から父側家族がお金を取りに来ます。父の会社は一応一流??だったためどこでもお金を貸してくれます。ダルマ式に積もりましたが、返し終わったのが家を建てる前でした。ローンと後の又出てきた借金は何が原因か??わかりません。なので、家を売り退職金で借金はゼロにし、大田区に一緒に帰って欲しいと言われました。(品川の大井町じゃないんかーい)父が大田区生まれらしかったので。で、何の戸惑いもなく私は成人してるのに父達と帰京しました。がw高田馬場でした。。。。。「今日からここで二人で住みなさい」と、二人とは私と1つ下の弟。賃貸マンションの6畳と4畳半の2DK。¥7,5000の家賃を二人で働いて払いなさい。でした。弟は神戸には来ず、六本木で働いてました。ですよねーー。今、考えると成人してるのに親に面倒見てもらうなんて?当時、バブル時期だったから、働き口はたくさんありました。そして、あらら?では、父さん達はどこに?はいー九州の宮崎に転勤決まってました。神戸には2年勤務の父は異例の出世だっみたいです。なら?私、神戸で一人暮らしでも良かったのでは?と。友達もたくさん出来てたのに。好きな人もいたのに。でも、弟と住むにはたくさんの困難がありました。ギャンブル依存なので、私が預けた家賃とか持ち逃げすることが何度もありました。その度に親に世話になるのです。それも父の借金が増えていく一つの原因だったのかな?そして、転機が、次の転勤が名古屋です。2度目の名古屋です。勤務先は支社ではなく、出世して本社並みの場所でした。住まいは、私が小6〜中2までいた社宅のアパートです。でもね、、、最悪な結末に。私は、昼はディズニーランド夜は、当時流行ってた大学生パブ?や歌舞伎町で夜のバーで歌手として働き、次はちゃんとOLとして不動産本社の広報で社員で働き始めたところ、母からの電話が。「昨日から父さんが変なの。いつもと違うの。車のシートベルトが切り刻んで家にあるの。そして行方不明」私は父の口癖が「死にたい。。。。」だったので、父さん何言ってるの?と励んでしまってました。当時は、うつ病とか精神病とかはマイナーだったので連れて行くとか考えもなかった時代です。それは、本当におかしい!夜の電話だったので新幹線もないから駆けつけることも出来ず翌日の始発の新幹線で名古屋に。弟は九州に引き取ってもらいそのまま九州に残ってたのでそこから駆けつけました。私は、名古屋につき地下鉄乗って自宅の最寄り駅は地上に上がる駅。その途中、見てしまいました。駅近い場所で父の車とたくさんの警察官がいました。駅に到着し直ぐタクシーに乗り少し逆戻りしてその場に行きました。お巡りさんに私の名前を言い、昨日から行方不明になってる父のことと捜索願い出してたので、警察官も直ぐ気づいてくれました。母を連れて警察署に来て欲しいと言われました。タクシー待たせてたのですぐに母のところへ行き連れて警察署に行きました。司法解剖前の父の遺体がありました。泣きました。やっぱり、くっついて、どこまでも一緒にいなきゃ?家族一緒に?と。報道陣が駆けつけていて、警察の方々が私達を見つからないようにかばってくれました。母の気がおかしくなってきて、私は平常心になることだけに注意を払ってました。そして、父からの母に宛てた10枚ぐらいのメモ用紙が遺書でした。私ら子供のことは1つも書いてなかったです。とにかく、愛する◯子へ。。もう、苦労書けないからとか◯子のための人生が始まるとか。本当のラブレターでした。感動してしまいました。母さんだけ見て愛して生きてきた父さん。D生命勤めだったためか?翌日には自死だけど保険金が下りました。社葬だったため、父の大学の友人とか連絡出来ませんでした。親戚は皆、集めましたが、父の妹(私の叔母)が母を責めてました。兄弟愛も強かった父さん。その叔母との私の年齢差は14。私が生まれた時は中学生。その中学生が石川県金沢まで生活費を取りに来てたが事態が凄いこととは?感じてなかったのだろうか。わからなかったんですね。きっと。喪主は20歳なったばかりの弟が。私の友達も駆けつけてくれて後の処理は弟に任せて帰京しました。残ってた借金は父の保険金が多額に下りたため、弟が走り返しました。私と弟は父さんの残したお金は母のためとよくわかってたので遺産を拒否しました。父は法学部だったため友人が弁護士とか多く、その方達に手伝っていただき、残った多額のお金は、新たに私の拠点が東京だったので、川崎にマンションを一括で買い、3人で住み始めました。バブル時期だったので高かったですがその2年後、弟が結婚し母の面倒を見るということでマンションは売ることに。¥1,000万ほど上回って売れました。バブル弾ける1年前のこと。高く売れてよかったです。後10年後辺りに父の姉が脳梗塞で亡くなり、叔母ですね。叔母は実子がいなかったため再婚相手の旦那様と兄妹に遺産を残しました。貧しかった兄弟姉妹のためにと口癖だったと叔父から聞きました。株や投資をしてて、一人、¥2,000万づづ残しました。父が先に亡くなってたため、母ではなく父の実子の私と弟が¥1、000マンづつ税金¥300万引かれて¥700万いただきました。何という兄弟愛。。。私は結婚してましたが生活苦で借金が¥300万ありそれを返済に充てどうしても旦那さんが欲しいという車を中古車ですが¥300万を一括で買い、残りの¥100万を家購入のための頭金の一部に全て無くなりました。なんか、色々あったなぁ。ハッキリ言えることは、金じゃねえー愛なんだよ!どうにでもなる。私は¥10万あれば一人なら生活できる。二人なら¥20万。趣味も出来るよ。だってー一膳一菜、具沢山の味噌汁。これで幸せなのだ。たまにカフェも行く。貯金もしてる??旅行できた。(来月めちゃ厳しいが)孫にも使ってる。両親からは、愛が大事だということを教えてもらった。後、クリスチャン(カトリック)になったので、ハッキリと断言できる。父は残念だが亡くなってしまったが、自死はもう避けれる時代。路上生活者の方々とも接した経験もあるが、皆が笑える様に私は今後も発信続けたい。