先日、プロテスタントの友人からある動画が
送られてきました。
その内容は、パウロ書簡を根拠に
「同棲や同性愛は天国へ行けない」
と語るものでした。
しかも、涙ながらに「自分の同期の牧師が
ゲイであるが、天国へは行けないと
信じている」と話していました。
正直に言うと、私は怒りを感じました。
なぜ人の救いを、
そこまで断定できるのだろう?と。
パウロの言葉について思うこと
確かに、聖書の中で
は厳しい言葉を書いています。
しかし、パウロが手紙を書いたのは、
当時の具体的な問題を抱えた共同体に
向けてでした。
異教文化の中で信仰が乱れ、
倫理が混乱していた
現実があります。
(お御堂・教会内で性行為など)
パウロの目的は、排除ではなく、
悔い改めと立ち返りを促すことだった
はずです。
さらにパウロは同時にこうも語っています。
「すべての人は罪を犯したが、
恵みによって義とされる」
彼の中心は、罪のリストではなく、
キリストによる救い
です。
誰が天国へ行くのか?
キリスト教において、最終的な裁きは
に委ねられています。
人間が「この人は天国へ行けない」と
断言することは、とても慎重であるべき
ことだと思います。
教会は、何が神の教えに沿っているかを
語ります。
しかし、それと個人の最終的な救いを断定
することは別問題です。
人の内面、事情、葛藤、誠実さは、
神だけが完全にご存じだからです。
私が怒りを感じた理由
私の怒りは、
「教え」に対してではありませんでした。
むしろ、
・神の憐れみが狭く扱われているように
感じたこと
・人の尊厳が軽く扱われているように
感じたこと
そこに心が反応したのだと思います。
福音書の中でイエスは、罪人と食卓を囲みました。
石を投げようとする人々に
「あなたがたの中で罪のない者が」
と語られました。
キリスト教の中心は、断罪ではなく、
招きです。
(そう、いつでも誰でも招かれている。)
パウロ教???ではなく、キリスト中心へ
動画を見て、正直「パウロ教のようだ」
と感じました。
しかし、
本来のキリスト教の聖書の中にパウロ書簡
がありますが道徳規定中心でもありません。
中心におられるのはキリストです。
パウロの言葉も、
キリストを指し示すためにあります。
もし言葉がキリストの顔を覆ってしまうなら、
それは読み方の問題かもしれません。
今思うこと
怒りは少し落ち着きました。
今はこう思っています。
本来人間は、
誰が救われるかを決める立場では
ありません。
私は、キリストの憐れみを信じたいのです。
そして、どの立場にいる人も、最終的には
神の愛の中で裁かれるのだと信じています。
それが、私の信仰の一部です。
