鄧麗君 (テレサ・テン)
1953年に台湾の雲林県 で生まれた外省人 。父親は中国大陸 河北省 、母親は山東省 出身の共に外省人で、父親は元国民党軍 (国府軍 )の職業軍人だった。彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。
日本ではどちらかというと演歌 歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡 や英語のポップス 、日本語ポップス のカバー曲 なども多数含まれている。外国語にも堪能であり、北京語 に加えて台湾語 、広東語 、日本語 、英語 に堪能で、山東語 、マレー語 、フランス語 などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。
1973年 に香港で「日本の父 さん」と呼ばれる舟木稔(のちトーラスレコード 社長)との出会いがきっかけで日本での活動を開始、ユニバーサルミュージック (当時は「日本ポリドール 」)と契約し、アイドル歌謡曲 路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかったため不発。演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞 新人賞を獲得する。しかし、1979年 、日本入国の際に違法の手続きで取得したインドネシア のパスポート を使用したことが発覚し、国外退去処分となる。その後米国 で暮らし、再来日を果たすまでは、香港を活動の拠点にしていた。中華圏のCDショップでは今でも、1982年~1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVD がよく売られている。
1984年 再来日。レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚[2] 、『時の流れに身をまかせ』が200万枚[3] を売る大ヒットとなる。1984年 から1986年 にかけ、日本有線大賞 及び全日本有線放送大賞 の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。1985年 12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホール コンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。
1987年 、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年 以降はパリに居住。中華人民共和国 の北京 における天安門事件 に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代 に日本をはじめとするアジア 各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年 5~6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌1991年 4~5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・ムード歌謡 というよりもJ-POP 寄りで、ASKA や桑田佳祐 、ZARD の坂井泉水 らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、1994年 11月に放送されたNHK 『歌謡チャリティーコンサート 』(仙台市 にて公開録画)だった。
1995年 5月8日 、静養のためたびたび訪れていたタイ ・チェンマイ のメイピンホテルで気管支喘息 による発作のため死去。42歳の若さだった。1990年 から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。同月28日に台北 で国葬 が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗 と国民党 党旗で覆われ、台湾での国民的英雄 ぶりがうかがえた。墓所は台北市 の北東に位置する台北県 金山郷 の金宝山 にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年 5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬 されず防腐加工などを施され土葬 された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石 、蒋経国 、テレサ・テンの三人だけである。
1995年 の春にレコーディングする予定で作られた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い追悼にした。のち、「忘れないで - time to say good-bye -」として、七回忌に当たる2001年 にアグネス・チャン と北原ミレイ によって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。
日本における発売元であるユニバーサルミュージック は、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている[4] 。
(テレサ・テンの活動年次は、「平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社」に基づく)
テレサ・テンと有線放送
テレサ・テンと有線放送 は切っても切れない関係にある。1985年 に大ヒットした『愛人』は、有線放送 のリクエストチャートで14週連続1位を記録。また、全日本有線放送大賞 では1984年 の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年 の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成して、浜崎あゆみ が2003年 に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。また、日本有線大賞 でもやはり1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成しているが、東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は2008年現在誰にも破られていない。
テレサ・テンと中華人民共和国
テレサ・テンの歌は、1974年 頃から音楽テープ によって、中国共産党 の一党独裁 国家で、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた中華人民共和国 に入り始めた。
彼女が歌う「何日君再来 」は、日中戦争 中の抗日歌 として知られ、1980年代初頭に中国大陸で爆発的にブームとなった。中華人民共和国と敵対関係にある台湾国民党政府は、中国大陸 に隣接する金門島 から彼女の歌声を大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反日 感情を反政府感情にシフトさせる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため中華人民共和国の当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは1983年 末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版 の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年 に両政府の関係改善がおこなわれたことから、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。
中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧(鄧小平 )のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。
1989年 6月4日 に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である天安門事件 の際には、香港で行われた民主化デモ 弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党 政府による一党独裁を否定したテレサは、1997年 7月1日にイギリス から中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、フランス のパリ へ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中華人民共和国の中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。
天安門事件後にテレサがあまりに民主化運動に傾倒したため、中華人民共和国の当局によって暗殺されたとの噂も絶えない。
代表曲
日本で発表した主な楽曲
- 今夜かしら明日かしら (1974年3月1日)
- 空港 (1974年7月1日 第16回日本レコード大賞新人賞)
- 雪化粧(1974年10月21日)
- 女の生きがい(1975年3月21日)
- 夜の乗客(1975年7月1日)
- アカシアの夢(1975年10月21日)
- 夜のフェリーボート(1976年6月1日)
- ふるさとはどこですか(1977年2月1日)
- あなたと生きる(1977年8月21日)
- 東京夜景(1978年5月10日)
- ジェルソミーナの歩いた道 (1981年2月28日)
- つぐない (1984年1月21日 第26回日本レコード大賞未受賞)
- 愛人 (1985年2月21日 日本有線大賞大賞)
- 時の流れに身をまかせ (1986年2月21日 全日本有線大賞大賞 第28回日本レコード大賞金賞 )
- スキャンダル (1986年11月21日)
- 別れの予感 (1987年6月21日 全日本有線大賞大賞)
- 恋人たちの神話(1988年1月25日 東京音樂節)
- 香港~Hong Kong~ (1989年3月8日)
- 悲しい自由(1989年7月26日)
- 涙の条件(1990年3月28日)
- 悲しみと踊らせて(1991年7月)
- あなたと共に生きてゆく (1993年5月12日)
- 愛的陽差
国語(台湾)の主な楽曲
- 一個小心願
- 又見炊煙
- 千言萬語
- 小村之戀
- 小城故事
- 不管你是誰
- 少年愛姑娘
- 月亮代表我的心
- 四個願望
- 再見!我的愛人
- 高山青
- 中華民國頌
- 往事如昨
- 風從那裡來
- 香港之夜
- 原鄉人
- 原鄉情濃
- 海韻
- 酒醉的探戈
- 彩雲飛(我怎能離開你)
- 情人的關懷
- 梅花
- 淚的小雨
- 甜蜜蜜
- 幾多愁
- 雲河
- 雲深情也深
- 愛人
- 獨上西樓
- 償還
- 襟裳岬
※1983年に、中国の古典詩に曲を付けて歌ったアルバム『淡淡幽情』が香港から発売され、香港の『アルバム・オヴ・ザ・イヤー』を受賞。収録曲に『独上西楼』『但願人長久』など。
広東語の主な楽曲
- 漫歩人生路
- 忘記他
- 遇見你
- 風霜伴我行
- 浪子心聲
- 雪中情
- 東山飄雨西山晴
- 遇到舊情人
- 向日葵
- 從今日起
- 檳城豔
- 雨中追憶
- 相思涙
- 誰在改變
- 有誰知我此時晴
台湾語(閩南語)の楽曲
- 天黑黑
- 思想起
- 走馬燈
- 快樂的出帆
- 望春風
- 雨夜花
- 碎心戀
- 祖母的話
- 難忘的愛人
- 人生是一條路
- 賣肉粽
- 三聲無奈
- 安平追想曲
- 舊情綿綿
- 六月茉莉
- 心酸酸
- 勸世歌
- 十一哥
- 心酸孤單女
- 縁投囝仔
- 阿里山的姑娘
日本語歌謡曲の中国語カバー曲
- 愛人(愛人)
- 償還(つぐない)
- 我只在乎你(時の流れに身をまかせ)
- 情人的關懷(空港)
- 夏日聖誕(MERRY X'MAS IN SUMMER )
- 漫歩人生路(ひとり上手 )
- 襟裳岬(襟裳岬 )
- 再來一杯(二人でお酒を )
- 再見我的愛人(グッド・バイ・マイ・ラブ )
- 誰來愛我(港町ブルース )
- 我和你(北国の春 )
- 四個願望(四つのお願い)
- 愛的理想(あなた )
- 無奈(鵜戸参り)
- 如果我有勇氣(勇気があれば )
- 山茶花(みちづれ)
※かっこ内は原曲の名称。日本語歌謡曲のカバー曲は他にも多数存在する。詳細については外部リンク参照。
トーク番組
パチンコ
演じた女優・歌手
関連文献
- 平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社 、1996年、ISBN 4794962525
- 宇崎真・渡辺也寸志著『テレサ・テンの真実』徳間書店 、1996年、ISBN 4198604134
- 篠崎弘著『カセット・ショップへ行けばアジアが見えてくる』朝日新聞社 、1988年、ISBN 4022558660
- 上村幸治著『台湾 アジアの夢の物語』新潮社 、1994年、ISBN 4104016012
- ファンキー末吉 ・古川典代共著『中国語で歌おう!まるごとテレサ・テン編』アルク 、2001年、ISBN 475740381X
- 有田芳生 著『私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実』文藝春秋 、2005年、ISBN 9784163668406
- 鈴木章代著『純情歌姫”テレサ・テン最後の八年間”』角川書店 、2007年4月10日、ISBN 9784048839457
関連項目
脚注
- ^ 邓丽君的生前身后幕后事--专访邓丽君大弟邓长禧先生 、SOHU.com、2003年5月6日(中国語)
- ^ 長田暁二 『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、296頁。ISBN 4390116495
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』297頁。
- ^ 「あすは何の日 『アジアの歌姫』死去」朝日新聞 2008年5月7日付夕刊、p.16。