朝食の後片付けをして、お昼前に私と佐栄子さんは二丁目の老紳士の家を出た。
風が気持ちよくて、私は顔を時折覆う髪をどかしながら、佐栄子さんと歩いている。
佐栄子さんはなんだか今日はオシャレで白いシャツ、膝たけのベージュのスカートに黒いパンプスを履いている。私といえば、ベージュのパーカーにジーンズ、スニーカーといつもと何も変わらない味気ない格好だった。自分の服装のバリエーションのなさに少し考えた。新しいものでも買おうかな。

「おめかして出かけるなんて久しぶり」

普段ほとんどメイクをしない佐栄子さんが今日はうっすらとメイクをしている。
背はしゃんと伸びていて姿勢がいい。実年齢より10歳は若く見えるのではないかと私は思った。

「どこへ行くんですか?」

私はパーカーに両手をつっこみながら佐栄子さんに聞いた。

「デパート。今日は先生の誕生日だから」

佐栄子さんは右手で5をだし、左手で2という仕草をした。
そして、もう一度右手で5と出した。

「75歳?」

「そう。75歳。しぶといわよね」

そう言って佐栄子さんは笑った。

「先生が生まれて75年目の日。だから、お祝いしてあげようと思ってね」

「そういうことですか」

「うん。プレゼント買って、今日は豪華な食事にしようかなあって。きっと荷物が多くなっちゃってひとりで持ちきれないから、頼んだの。それにふたりでやらないと意味ないしね」

「プレゼントは何をあげる予定なんですか?」

「まだ決めてないの。ネクタイとかいいかなあって思うけどね」

「いいですね。喜びそう」

「だといいけどね。それに今回は特別。先生の誕生日ももちろん祝うけど、もうひとつは三人が初めて一緒に何かを祝う記念日でもあるの」

「記念日か」

「そう。記念日。いいでしょ?」

その日、私と佐栄子さんは本当によく歩いた。
デパートをいくつもハシゴし、プレゼントの品をああでもないこうでもないとふたりで言い合い、いつまで立っても決まらなかった。けれど、結局、二丁目の老紳士へのプレゼントはカフスにした。

「若すぎないかしら?」

佐栄子さんは心配していたけれど、店員の人がえらく勧めたので、迷った挙げ句決めた。

そのあと、近所のスーパーへ行き、これでもかというくらい材料を買い込み、夕方から私たちは夕食の支度に取りかかった。

二丁目の老紳士は今日が自分の誕生日であることを全く忘れているらしく、終始怪しんでいた。

「なんで今日はこんな豪勢なんだい?」

夕食に並んだ料理の数々は豪華の一言だった。

サイコロステーキ。コールスロー。もやしと茄子の炒め物。コーンポタージュ。金目鯛の煮物。
パンとご飯。ルッコラのシーザーサラダ。野菜スティック。シュークリーム。

突然渡されたプレゼントに驚いた二丁目の老紳士はわたしたちが「ハッピーバースデー」という言葉を聞いてようやく自分の誕生日を思い出した。

「ありがとう」

そう言ってカフスをすぐ着ているタキシードに付け、食事の最中も食後のデザートのときも、食事が終わってからも「似合うだろ?」と自慢げに私たちに言ってきた。

三人ともこれでもかというくらいよく食べ、よく笑い、よく話した。

私はこの時間を一生忘れないだろう。

そんなことを思いながら、この素敵な時間を過ごしていた。

私には家族がいる。

そう思った。
朝、鳥の声が聴こえる。
部屋に光が差し込む。
私は真新しいシーツに包まれながら、目を開ける。
洗剤の匂い。枕にもベッドにも同じ匂いがした。

私はベッドから起きがあり、あたりを見回す。
古い机がひとつ。大きな本棚がひとつ。白いカーテン。木目調の床。
この部屋を構成する物質はすべて新しい。
新しい場所で私は呼吸し、二酸化炭素を吐き出す。

二丁目の老紳士の家に住み始めて一週間が過ぎた。
私は空いていた部屋を借りて、住んでいる。
ベッドや枕カバーを新しく新調してくれたのは佐栄子さんだ。
部屋はゴミひとつ落ちていない。
私が仕事に出かけているあいだ、毎日佐栄子さんが掃除してくれている。

私はドアを開け、リビングへ向かう。
リビングにはお味噌汁の香りが漂い、佐栄子さんは朝食の準備をしている。
二丁目の老紳士は大きなソファで新聞紙を広げている。

「おはようございます」

私はふたりに声をかける。

「おはよう」

佐栄子さんがオムレツを乗せた皿をダイニングテーブルに運びながら言う。

「おはよう」

二丁目の老紳士も新聞から目を離し、私に声をかける。

「もうベッドには慣れたかい?」

二丁目の老紳士が新聞を畳みながら私に聞く。

「はい。おかげさまで。よく眠れます」

「それはよかった」

二丁目の老紳士はそう言って、ダイニングテーブルへと向かう。

「もうすぐ朝ご飯できるからね。座って」

佐栄子さんがせわしなくダイニングテーブルと台所を行き来している。

「さあ、食べようか」

二丁目の老紳士の言葉に合わせるように私と佐栄子さんは席に座った。
目に前にはたくさんの朝食が置かれている。
オムレツ、サラダ、トースト、ウインナー、オレンジジュース。
家族の風景。

「いただきます」

二丁目の老紳士が言う。

「いただきます」

私は両手を合わし、オレンジジュースを口に運ぶ。
口の中に甘みと酸味が広がる。

「オムレツの中身はベーコンにしてみました」

「うん。おいしいよ。佐栄子さん」

二丁目の老紳士はもうオムレツを半分平らげている。

「今日、仕事お休みだっけ?」

佐栄子さんがサラダを人数分に取り分けながら私に聞く。

「はい」

「だったら、今日ちょっと付き合ってくれない?」

「はい。わかりました」

「買い物に行きたいの。ひとりじゃちょっとしんどくて」

「わかりました」

「朝ご飯を食べて、片付けたら行きましょう」

「了解です」

私は半熟のオムレツに口をつける。

「佐栄子さん。コーヒーもらえるかな?」

「もうコーヒーですか?」

「食べてしまったからね」

「相変わらず早いですね。ちゃんと噛んでますか?」

「噛んでるよ。親みたいなことを言うね」

「先生は時々、子供みたいなことをやりますからね」

佐栄子さんはそう言って私を見て、悪戯な笑みを浮かべた。
それに合わせて私も笑みを浮かべる。
二丁目の老紳士はばつが悪そうに、サラダの残骸を器用にフォークで取り出して、口寂しさか口へと運ぶ。

「はい。コーヒー」

佐栄子さんが二丁目の老紳士に差し出す。

「お砂糖は?」

「5つ」

「それもうコーヒーじゃないですよ」

佐栄子さんが砂糖を3つ差し出す。

「いいんだよ。これが私のコーヒーの飲み方だ」

二丁目の老紳士は佐栄子さんから受け取った砂糖を三つ入れ、かき回す。

「佐栄子さん。あとふたつ足りないよ」

「だめです」

二丁目の老紳士はもう何を言っても無駄だと観念したのか、何も言わずコーヒーの砂糖をスプーンで溶かし、一口飲んだ。

「苦い」

顔をしかめた二丁目の老紳士は本当に子供みたいだと思った。
駅までは佐栄子さんが迎えに来てくれた。
佐栄子さんはとても嬉しそうで、私の持っているバックを何度も持つわと言った。
街は秋特有の心地よさを醸し出していた。
時折吹く風が私と佐栄子さんの髪を揺らした。
商店街はハロウィンが近いのかどこもオレンジ色の装飾をしている。
そういえば、私の勤める花屋もカボチャをくりぬいた置物が置かれていたことを思い出す。

「気持ちいいわね」

佐栄子さんが空を見上げながら言った。

「そうですね」

私は落ちている落ち葉を見つめる。

「私は一年の中で、いちばんこの季節が好き。なんだか包まれている気分になるの。木々や葉、あと匂い。すべてがすごく調和がとれていて、満たされたような気持ちになる。だから、好き」

佐栄子さんは歩きながら目をつぶり、大きく深呼吸をする。

「中でも、秋の夕方は最高」

佐栄子さんはそう言って、私に笑顔をむける。
屈託のない笑顔だと思う。佐栄子さんか滲み出る雰囲気は人の心をほぐす作用があると思った。
人に好かれる人だ。そして、人を好く人だ。
佐栄子さんは目の前に見える屋台に足早に行き、「ベビーカステラひとつちょーだい」と言った。
私は可笑しくなって笑ってしまった。佐栄子さんに見つからないように。
笑ったのはいつぶりだろう。

「おいしいよ」

口にベビーカステラを放り込み、袋からひとつを私に差し出した。
私は我慢できずに佐栄子さんの前で笑ってしまった。
口をモグモグさせながら、不思議がる佐栄子さんはまるで少女のように見えた。
私はなんでもないですというジェスチャーをしながら、まだ笑っていた。
佐栄子さんがとても可愛かったから。そして、とても楽しかったから。

二丁目の老紳士の家に着いたのは六時を少し過ぎたところだった。
家に着くまでにベビーカステラをすべて平らげてしまった佐栄子さんは夕食を食べれないとぼやいていた。

「自業自得ね」

そう言ってまた笑った。

二丁目の老紳士の家は木々に囲まれている。
周りの家とも距離があり、大きい。
坂道を上り、正門へ向かう。
三ヶ月前と変わらない門だった。
年月が大きく経過しているであろう門や家の壁。
とても年季が入っているように見える。
屋根は黒かグレーかここからではよくわからない。
屋根の上には高くそびえる煙突があり、以前見たあの暖炉と繋がっているのだろう。
私は立ち止まって、二丁目の老紳士の家を見つめた。

「さ、行きましょう」

佐栄子さんに促され、正門をくぐる。
10メートルほど先に玄関が見える。
玄関のドアがゆっくりと開く。

「いらっしゃい」

二丁目の老紳士がいつものあの姿で迎えてくれた。
私は立ち止まり、頭を下げる。

「よろしくお願いします」

二丁目の老紳士はとびきりの笑顔でこう言った。

「ようこそ」

私の次の物語はここから始まる。

引っ越しの準備は早く終わった。
もともと荷物が少なかったので、梱包作業に大した時間はかからなかった。
思い出の品なんかは今の家に引っ越すときに全部、広島のおばあちゃん家に置いてきた。
パパとママが死んでしまったとき、おばあちゃんはしきりに家へ来るようにと勧めてくれた。
すごく嬉しかったけど、断った。私が今の家へ向かうとき、おばあちゃんは駅まで送りにきてくれた。

「いつでも帰っておいで」

私は「うん」と言っただけで、一度もそれから帰っていない。
一ヶ月に一度ほど報告じみた電話をしていたけど、それは引っ越ししてからすぐのあいだだけだった。

私はパパとママの色が残る世界から出て行きたかった。
あの世界にはもういたくなった。
パパとママから遠くへ行きたい。あのときはそれしか考えられなかった。
世界から私も消えてなくなりたい。毎日思っていた。

でも、人はひとりでは生きられない。
いや、性格に言えば、生きていける。
ただ、世界の誰とも接触しないで生きていくことは不可能だ。
家を借りる。お金を稼ぐ。物を買う。
嫌が応にも人と共生しなくてはいけない。
私のような非社会的人間が今日までやってこれているのも、ひとえにおばあちゃんの力だと思う。
パパとママが死んで、心を閉ざしてしまった私を、おばあちゃんは根気よくしつけてくれた。
私は聞いていなかったし、覚えてもいないけど、今はなんとなくあのときのおばあちゃんの言葉が知らず知らずのうちに私にとけ込み、最低限の社会性を与えてくれたのだろう。
想いは心を通過する。
そんな気がした。

がらんとなった部屋を眺める。
もともと何もない部屋だったが、こうして物も本格的になくなると、より広さが強調される。
白い壁。白い天井。
私は仰向けになって天井を見上げる。

会って間もない二丁目の老紳士の家へ何故行こうと思ったのだろうか。
二丁目の老紳士や佐栄子さんは何故こんな私を呼んでくれたのだろうか。
ありえない話だと思う。でも、あり得たのだ。
私はもうひとりでは生きたくない。
誰かと共に生きたい。
例え、二丁目の老紳士の家へ行くことが逃げだとしても、構わなかった。
もうひとりは嫌だ。

窓の外から鳥の声が聞こえる。
私は目を閉じる。
耳を澄ませる。
色んな音が聞こえる。
車の音。下の階から聴こえてくる音楽の音。風の音。子供たちが騒いでる音。自転車の音。
世界が廻っている。そう思った。

私は起き上がり、腕時計に目をやる。
夕方の四時をまわったところだ。
そろそろ二丁目の老紳士の家へ向かう時間だ。
私は荷物を持って玄関へ向かう。
靴をはき、ドアを開ける。

「バイバイ」

私はドアを閉めた。
がちゃんという音が鳴る。
部屋が「バイバイ」と言ったような気がした。
駅前にあるカフェ「Rosa」にお客は昼なのにも関わらず数えるほどしかいなかった。
朝一で、佐栄子さんがお店に来て、お昼頃にまた来るわと言って、佐栄子さんは12時きっかりにお店に再び現れた。私は佐栄子さんに言われるがままついて行き、私は席に座っている。

カフェ「Rosa」には私と佐栄子さんを含め、5人しかお客がいなかった。
何やら勉強に励んでいるように見える大学生の男の子。
コーヒーを飲んでいるサラリーマン。
タバコを吸いながら暇そうにしているおじさん。
そして、私と佐栄子さん。

目の前にはアイスコーヒーがふたつ並んでいる。
佐栄子さんはガムシロップを一つ入れ、ミルクはいれなかった。
私は何もいれず、まだ一口も手をつけていない。

私の席からはタバコを吸っているおじさんとレジが見える。
レジにはアルバイトらしき女の子がいて、お金をレジに入れている。
おじさんはタバコの煙を上へと吐き出し、うまそうに吸っている。

目の前にいる佐栄子さんは以前会ったときよりも、少しだけ痩せた気がした。
化粧はほんの少ししているだけで、そのナチュラルさが逆に奇麗だなと思った。

「久しぶり」と佐栄子さんは言った。

「お久しぶりです」と私は返した。

「あれからどれくらい経つかしらね。元気にしてた?先生がうるさいのよ。また来ないのかなって」

佐栄子さんは努めて明るく言った。

「だから、そんなに暇じゃありませんよ、先生と違ってって言っておいた。彼氏とか友達とかいるでしょうにってね。そしたら、それもそうかって言ってなんだか、しょんぼりしてたわ」

「彼氏なんていませんよ」

私は目の前にあるアイスコーヒーを見つめながら言った。
グラスから浮き出た雫がいくつも垂れている。
きっと中身も少し薄くなっただろう。

「いいのよ。いるかいないかなんて。ただ、先生はそうでもしないとうるさいから」

「なんかご迷惑をおかけしてすいません」

「いいのよ。むしろこっちが迷惑をかけたかなって思ったの」

「そんなことないですよ。全然そんなことない」

「そう?ならよかった」

佐栄子さんは嬉しそうにアイスコーヒーを飲んだ。
佐栄子さんを見ながらなんだか無性に淋しくなった。
佐栄子さんは必要以上に聞かないし、言わない。
私の領域と自分の領域をきちんとわかっている人なのだと思った。
そこにむやみに立ちいらない。
遠くからそっと見守ってるだけ。
だからこそ、嬉しかったし、悲しかったし、泣きたかった。

私はひとり。
生きたいのか、死にたいのかもわからない人間。

でも、ときよりどうしようもなく怖くなる時がある。
テレビで殺人事件を見たとき、
街で救急車が猛スピードで駆けて行くとき、
世界の遠いところで起きている紛争を見たとき、
人とすれ違っているとき、
私は怖くなる。

いつ私がその立場になるのだろう。
私はどうやって死んで行くんだろう。
誰かに殺されるのか。
自分で死ぬのか。
刺されて死ぬのか。
飛び降りるのか。
轢かれるのか。
眠りながら死ぬのか。

鏡の中の女はいつもこう言う。

「あんたなんか消えてしまえばいいのに」

鏡の中の女は決まって夜に現れる。
そして私に襲ってくる。

いなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのにいなくなればいいのに


私は飛び起きる。
涙で前が見えない。
怖くて体の震えが止まらない。

「あなたはいていいのよ」

目の前の佐栄子さんが言う。

「あなたはいていいの。いるべきなの」

どうして?
どうして?
どうして?

私は何も答えることが出来なかった。
ただ目の前にいる佐栄子さんの顔を見ることしか出来なかった。

「ねえ」

佐栄子さんが言う。

「あの家で住まない?三人で」

私のアイスコーヒーの中の氷はもう消えてしまった。
からんと音も鳴らずに。静かに。
いなくなっていた。

鏡の中の女は言った。

「嘘つき」

私は嘘つきだった。
でも、たったひとり。
たった一言。
それだけで世界は変わることを知った。
鏡の中の女の言う通り、私は嘘つきだった。
今でもわからないことはたくさんある。見えないことはたくさんある。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
私は私を騙し続けていた。

私は、生きたい。