拓馬(たくま)が実家を出て三年が経った。
父・誠司は伝統的な味噌を作る大きな会社だった。
地元の港町を離れ、東京で「自分の力で生きる」と言い残したあの日。
父の言葉も、兄・拓人(たくと)の眉間の皺も、あのときの彼にはもう遠い風景のように思えた。
最初の一年は順調だった。
知り合いの手伝いで始めたバーの仕事も軌道に乗り、客との会話が楽しくて仕方なかった。
けれど、次第に夜の街に飲み込まれた。
金を使うほど評価されるような気がして、ブランド服に腕時計、車までローンで買った。
酒と女と見栄が、いつしか彼の支えになっていた。
そしてある夜、共同経営者に裏切られ、店の金を持ち逃げされた。
借金が残り、友人は離れ、拓馬は街を転々とするようになった。
冬の風が肌を刺す頃、彼はふと父の暖かい味噌汁を思い出した。
もう一度、帰ってもいいのだろうか——。
答えはわからなかった。
ただ、寒さと空腹が、彼を列車に乗せた。
実家の前に立ったとき、拓馬は息を詰めた。
灯りがひとつ、まだ残っている。
父だろうか、それとも兄か。
泥のついた靴を気にしながら玄関を開けると、台所から声がした。
「……誰だ?」
拓人だった。
黒いパーカー姿の兄は、驚いたように目を見開いた。
拓馬はうつむき、かすれた声で言った。
「……帰ってきた。もう、行くとこなくて。」
沈黙。
長い、長い沈黙のあと、拓人はゆっくりと歩み寄った。
殴られるかもしれないと思った。だが、兄はただ、小さく息を吐いて言った。
「風呂、沸かしてある。父さん、まだ起きてるから。」
その声が優しかった。
拓馬の目から、静かに涙がこぼれた。
湯気の立つ味噌汁の前で、父は言った。
「よう帰ってきたな、拓馬。もうええ。腹、減っとるやろ。」
味噌汁の湯気が顔にかかるたび、胸の奥が痛んだ。
父は何も責めなかった。
ただ、帰ってきた息子を受け入れた。
夜更け、拓馬が布団に入ろうとしたとき、廊下の隅で拓人が立っていた。
「……父さん、喜んでたぞ。お前が帰ってきたって。」
拓人は背を向けたまま言った。
「俺だって、ずっと腹が立ってた。でもな……帰ってきた時のあいつの顔見たら、なんかもうどうでもよくなった。」
拓馬は何も言えず、ただ「ごめん」と小さく呟いた。
拓人は笑った。
「謝るくらいなら、明日から手伝え。うちの味噌、もうすぐ仕込みの時期だ。」
拓馬は静かにうなずいた。
外では、夜明けの風が海の匂いを運んできていた。
長い旅の終わりと、もう一度始まる朝が、そこにあった。
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モチーフ:『ルカによる福音書15章11〜32節』放蕩息子のたとえ
テーマ:迷いと赦し、そして再生