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 春は嫌いだ。

 ぬるんだ空気が凍りついていた命を溶かし、生き物を狂わせる。

 花が咲き、鳥が鳴き、目覚めた虫が動き出すように街もひとも本能のままに浮かれ騒ぎ出す。

 今年の春は特におかしい。

 どこかで軋み続ける世界を体現するかの如く、年を追うごとに早く早くとその花を開くこの街の桜が、今年はまだ三月も初旬だというのに一斉に狂い咲いた。

 吠登城へのいつもの道すがら、土手沿いの道を埋めた満開の桜並木の手前で俺は一瞬躊躇する。

 そう、春は嫌いだ。この花が咲くのがいけない。

 胸の内に巣食った謂れのない嫌悪の感情が、一体いつから自分の中に生まれたのか、何が切っ掛けだったのか。

 そしてそんな俺を、花に罪はないと言って笑ったのは誰だったか。

 思い出そうとした記憶が曖昧に霞み歪んで指の間をすり抜けてゆく。

 懐かしい声と笑顔。

 確かにこの花の下で。

 おぼろな面影に手を伸ばし、記憶の底から掴み取ろうとして失敗する。

 得体の知れない苛つきに顔を歪める俺をあざ笑うかのように、風は花弁を巻き上げ視界を阻んだ。

 吹きつける風から目を庇いわずかに俯く。

 雪のように降りしきる白い花弁が渦を巻き、どっと全身に叩きつけたその向こうには、嫌になるほど見慣れた、長い黒髪の流れる背中。

 意識するより先に、唇がその名前を紡いだ。



「……お前、」



 ここに居たのか、という言葉は声にならずに消えた。

 そんなはずはない、居るはずがない、なぜならあいつは。

 もう存在しないはずの微笑みが、花の下で俺を振り返る。



──なんだ、思い出しちゃったんですか?



 薄い肩をすくめ、上目遣いに俺を見上げるいつもの仕草に静かに息を吐く。

 ああ、そうだ。

 あいつはもう居ない。

 思い出した。

 どうして一瞬でも忘れていたのか。

 忘れていられたのか。

 忘却こそが人の真の死だというならば、彼女にはそれが永久に訪れない。



「誰が、忘れてやるものか、」



 吐き捨てるような応えに目を開いた彼女は、一瞬おいて吹き出した。

 弾ける笑い声が梢を揺らし、春の陽射しを掻き回す。



──雀呂さまってば、ほんっと残念ですよね、イケメンなのに。



 ひときわ強く吹きつけた風が、柔らかな声となってこだましきらきらと光を散らす。

 舞い落ちる花弁を吹きさらった風は、俺を置き去りにして晴れた空の高みへと駆け上がっていく。

 その行方を目で追い、髪をぐしゃりとかきあげた俺は満開の花の下へと一歩を踏み出した。

 花の下には、もう、誰も居ない。




 - End -