幸せな同性婚をされた方がいる。素晴らしいことだ。

帰宅したら伴侶が泣いていて驚いてしまった。
私も見て、何とも言いようのない気持ちになった。普段ならば素直に祝福の気持ちになるところだが、何故か気分がずっと暗く、どうしてこのツイートがこんなにも引っかかるのだろう、とモヤモヤと考えた。

このツイートに、深く傷ついた人がいる。狭い観測範囲であるが、憎しみを抱いた人もいるかもしれない。しかしこれを、ただの僻みだというようには私には思えない。どうしてだろう。人の幸せは単純にいいものだ。日頃私は他人の幸せに水を差すようなことを思うことがあまりない。そんなに他人の状況に興味がないからとも言えるが、とにかく普段は自慢や惚気の類を聞くことが苦痛にはならない。

伴侶の弟は、同性愛者で、様々な苦難と差別、偏見の末に自殺をした。彼が住んでいた国は日本だ。
私の兄は、友人の同性同士の結婚式に断固として出席を拒否して縁を切り、私の伴侶の弟が同性愛者であったことを知ると私たちの結婚にも反対した。少しでもテレビに同性愛者が映れば「気持ちが悪い、消せ」と言う人だ。この度人気を博したと言う男性同士の恋愛を描いたドラマも、心底嫌っていた。彼が住んでいる国も日本だ。

あのツイートは、単にその人が自分は同性愛者だが不自由なく暮らし、幸福であるという事実を述べただけだ。素晴らしいことで、他の人の希望にもなる。それなのに、どうしてこうも人を悲しい気持ちにさせるのだろう。
該当ツイートのツリーを見てやっとわかった気がした。
この人は、「被差別者の中の強者」であり、「弱者」を見下しているのだ。リプライのひとつで杉田議員の免職を求めデモを行った人々へ向けた嫌悪の言葉だけが目立って強く、最初のツイートとは異質ですらある。「自分はあんなみっともない、差別されるような同性愛者ではない、一緒にするな」という非常に尖った叫びがこもっている。

先に言う。私自身もあのようなデモ行動はいいことではないと思っている。しかし行動は自由なので、どうこう言う気もない。そして彼らの自由は批判されない保障を持たない。その上で綴る。
完全に私の主観で言うと、「同性愛を差別する法もなく」という部分には「たいした宗教もない国でそこまで落とした比較が必要か」と悲しくなりつつも、「差別せよという法」があるから差別があるのではなく、「異性愛者と同じ権利が法で保証されていない」ことがしっかり差別として機能しているわけだからどうにも的外れだなと思う。「差別しろという法がないんだから差別はない」というのは非常に危険な思想だ。人種や性別に置き換えてみればわかることだと思う。それくらいである。

この人は周囲の理解と祝福が得られ、専門職で経済的にも安定し、パートナーも得て家族をつくることができた、「最高の成功例」であるのは間違いないだろう。異性愛者でもここまでの幸福状態はそう無い。社会的に見ても強者だ。
プライドも高いのだと思う。
「同性愛者だってちゃんと暮らせば仕事がもらえるし裕福で幸せな生活ができる」を自分が体現したので、あのデモのような人々はみっともない、甘えを喚き散らしているようにしか見えないのだろう。
そして、現実にはそっち側の同性愛者の方がずっと多いのである。

あのツイートは彼にとっての真実であり、決して間違ってはいないが、彼の幸福は、幸運が大きな役割を担っているだろう。理解してくれる家族や近隣者、資格職につける教育を受けさせてくれた生家の財力、その他いろいろ。このあたりは同性愛異性愛関係なく誰にでもあり、誰もに平等ではない。
そして、その幸福を実現させた社会は、これまであんなふうにデモを行い苦しんで闘ってきた人々によって素地ができてきたのだ。
あのツイートでは、「初めから日本はずっと差別のない国だ」という主張に受け取られても仕方がないだろう。現実にリプライの中に、「江戸時代から日本は男同士の恋愛に寛容」という主旨のものがあり、当人も同意のリプライを送っていたので、そのつもりでツイートしているのだろうと思う。

それだけは間違っている。

この三十年ほどで、日本の同性愛に対する偏見は凄まじい改善をみた。これは確かだと思う。しかし今の幸福は闘ってきた人々に感謝をしろとか、そんな話ではない。別に何も苦労せず現代を享受していい。

しかし今はまだ、過渡期なのである。彼を第三世代とすると、同性愛者だという理由で家族に縁を切られ、職を失い、生活に苦労をし、それに抗う発想もなかった第一世代もいて、自分のプライバシーを犠牲にしてもそれと戦い、少しずつ権利を広げていった第二世代もいる。混在して暮らしているのだ。複雑な気持ちになる人が多くて道理だろう。

私は幼少期と大学院の間、日本よりも階級意識が強く、社会における身分や人種差別の根深い国で暮らした。その時にも、こういったものは目にした。
能力の高い人がそれに関係なく差別されるグループにいるときに、被差別グループの中にも上下が生まれ、差別・被差別がまた生まれるのを見た。
優秀でプライドの高い人間が、それと関係ない部分で人から見下されるとき、それを「なかったこと」にするために、弱者達は「いないこと」にされる。必死で「差別されて心まで貧しくなってる奴らとは違う」と水面下で闘っている。何度も見た光景だ。
簡単に言えばマウンティングだ。それだけだ。いい時代と地域に生まれ、運が良く、環境と能力に恵まれ、努力し、多くのものを得た人が「自分は同性愛者だけど苦労なんてしてない」と言うのは正しいし、自由だ。だが、そのために彼が「なかったこと」にしたものは、あまりに大きかった。人の心に影を落とした。

人の幸せなんて、誰だって素直に祝福したい。しかし、リプライや引用RTを見る限り、それができなかった人々がいる。
彼らも本当は苦しいだろう。
「妬んでるだけですね^^」「人の幸福に水を差すなんて醜い」と切り捨てられているそれらを見て、正しく出せる言葉が今、私の感情の中にない。

私はあくまでこう感じた、というだけの話である。伴侶はひどくショックを受け、深く話ができる状態ではなかったので真意は聞けていない。全ての人が私と同じ理由で悲しい気持ちや、なんとも言えない嫌悪感を持ったわけではないだろう。しかし、私だけではないと思う。