大阪梅田アナスタシアで占い師をしていますアンネです。

今回はおどろおどろしい題名ですね。

というのは、最近「破船」吉村昭作を読みまして。

昭和60年に出されたこの作品。

作家の描写が素晴らしく、現代に読んでも生生しく感じることができるんです。

ストーリーは貧村の漁業を生業とした人々で、

船の座礁を誘導させて、その船から金品を強奪することで潤っている村の話。

金品とか良いものだけを運んでくると思いきや、

最後はとんでもない厄災も運んできたっていう。

 

もうね、船を座礁させるように誘導させてるってだけで悪の化身と聞こえると思いますが、

貧村で生きるのに必死な人々が生き残る術なんですよ。

訳も分からずこの村で生まれて、その文化で育ち、貧困にあえいで必死に生きているだけっていう。

 

船の座礁というのは、船側の人たちからすると命だけでなく財産もすべて奪われるという状況。

それを願う村民。

でも、この村民も悪いことをしている意識はあり、隣村にはこの風習を秘密にしているんですよ。

バレてないか、隣村に偵察スパイを送り込むまでやっている。

 

でもね、この感覚って身に覚えはありませんか?

誰しも一度は感じたことがある感覚。

悪いとは思うけれど、仕方ないよね、、、と何かの犠牲の上で自分の利益を優先させてしまうこと。

 

この作品は吉村昭作品の中で一番海外で翻訳されて、フランスで映画化もされたらしいです。

日本人というものを超えた人類普遍の心の闇というか葛藤というものがあるんでしょうね。

 

人の不幸を願う行為というのは、状況によって色々あるとは思いますが、

共通しているのは自分にも心苦しさがついて回るということかもしれませんね。

作品の中では最後厄災が来るのですが、

単に自業自得とか因果応報と簡単に片づけられるものではないと感じます。

 

だって私達も人の不幸を願ってしまう時って、自分の状況も不幸なことが多いと思うのです。

もう人の不幸を願ってしまうこと自体がすでに地獄のど真ん中にいるってことですよね。

この村民も貧しくってしょうがない不幸の中にいるわけなんですよ。

地獄のど真ん中で生きていて、地獄の願いをして、地獄の因果応報が回ってくるかと思うと

なんて地獄スパイラルなの!?と叫びたくなってしまいますよね。

 

人の不幸を願ってしまうことの是非よりも、願ってしまうほどにつらい状況なのだということに

目を向けていくってことがスパイラル脱却の一歩なのかも。

答えがないって難しいなぁ。

ともあれ、吉村昭作品はとても素晴らしいです。