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そういうわけでのっけからパンチを食らってしまったので、退却して、読むのを一旦、中止して、晩ご飯を食べることにした。
・・・・・・・・・・・・
食事をして体勢を立てなおしたので、池田氏のご反論の検討に入りたい。
========
私のブログやツイッターに対する匿名の罵倒は山ほどあるが、実名の批判は驚くほど少ない。今まで記事で反論したのは、中島聡氏に対してだけだ。本書の著者、安富歩氏からも何度かTBが来たが、論旨がよくわからないので放置していた。ところが本書では、なんと40ページにわたって私の記事が批判されている。これはお答えしないわけにはいかないので、長文になるが反論しておこう(個人的な記事なので、関心のない人は無視してください)。
========
微妙なことだが事実と反することがある。私は彼のブログにトラックバック(TB)をかけていない。理由は簡単で、私はどうやったらTBをかけられるのか、わからないからだ。それでコメント欄に、ブログのアドレスを記して、「コメントを書きましたので、ご笑覧ください」というようなことを書いた。そしたらしばらくしたらコメントが承認されたので、「ああ、池田さんは都合の悪いものでも出されるのだな。」と思って感心したのである。ところが、しばらくして見てみると、私のコメントは見当たらなくなっていた。ゆえに、
「安富歩氏からも何度かTBが来たが、論旨がよくわからないので放置していた。」
というのは厳密に言うと正しくない。
「安富歩氏からも何度かコメント欄にブログのアドレスが書き込まれたので見てみたが、◯◯◯なので消した。」
というのが正確なところである。◯◯◯は想像するしかないが、「論旨がよくわからないので」は入らない。そういう理由であれば、一旦承認したものを、わざわざ消す必要はなく、放置すれば良いからである。
===================
安冨氏はアゴラの初期のメンバーであり、彼の著書を好意的に紹介したこともあるが、私の記事が「東大話法」だという批判は意味がわからない。東大に勤務する彼が、しがない私立大学に勤務している私に「東大」というレッテルを貼るのも奇妙だが、「お前の言い方が悪い」という日本人に特有の話は非生産的なので、論じてもしょうがない(これが放置した理由)。
===================
「彼の著書を好意的に紹介したこともあるが」というのは、『生きるための経済学』を書評されたこちらの記事である。今でも私は、このようにご紹介下さったことに、感謝している。改めてお礼を述べたい。
ただ、今、読み直すと、なぜ私がアゴラから抜けることにしたかがよく分かる。私の本の内容を、正しく捉えていただいていないのである。たとえば、
「(自由という漢語)を日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。」
という文章があるが、これはおかしい。まず「自由」という漢語を「無縁」という日本語に置き換える、といっているが、「無縁」だって漢訳仏典の言葉だから漢語である。それに、「自由」という日本語が、中世から使われている。それ以上に、「無縁」の解釈が問題である。自由に無縁を対応させたのは網野善彦であるが、網野は無縁の原理を「こっちから縁を切る原理」としているのである。こっちから切るから、自由になるのである。池田氏のように、「共同体から縁を切られるという意味」だと思ってしまうと、どうして自由と関係あるのか、サッパリわからない。私の本を真剣に読んでくだされば、決してこんなことはお書きにならなかったであろう。
なぜこんなことになるのかというと、本をパラパラっと見て、目に止まった言葉を適当に繋ぎあわせ、話を自分で想像して書いているからだと考えられる。そうなると、元の本が言っていることなど関係なく、彼の頭の中で捏造された本が論評されることになる。「藁人形攻撃」という奴である。私の今回の本も、大島堅一氏の本も、同じ目にあったのではないかと考えられる。
そういえばこういうことを良く見聞することを思い出したので、
【東大話法規則】本や論文を読まずに論評する
を追加しておきたいと思う。池田氏は一応、現物を手にしているようなので良心的な方であるが、東大(に限らず学界)では、論文や本を読まないで、人から聞いた噂だけで、著者に対する評判が定まってしまうことが往々にしてある。最近、私の研究所で紀要に投稿された論文が、審査している最中だというのに、外部でその論文の悪評が流れる、という事件があった。誰か審査に関わった者が、気に入らないので噂をばらまいたのである。これは完全にルール違反であるが、こういうひどい噂だけが流通することが多い。こんな卑近な例ばかりではなく、大抵の有名な学者の学説はこういう目に遭っている。たとえばアダム・スミスといえば「見えざる手」であるが、この言葉は『国富論』に一回しか出てこないし、その意味は池田氏の言うような「神のメタファー」などではなく、『道徳感情論』で議論されている「心のなかの他人の目シミュレーター」のことなのである。
さて、
「安冨氏はアゴラの初期のメンバーであり、彼の著書を好意的に紹介したこともあるが、私の記事が「東大話法」だという批判は意味がわからない。」
という氏の文章であるが、これは注目に値する文である。
どうして
「安冨はアゴラの初期のメンバー、かつ、池田氏が安冨の本を好意的に紹介した」
という命題と、
「池田氏の記事を安冨が「東大話法」と批判したのは意味がわからない」
という命題とが、
「が」
という逆接の接続詞で繋がるのだろうか。2つの命題は全然違った出来事に関することではないだろうか。もし両者に関係があるとすると、
「昔のアゴラのメンバー かつ 好意的」と「批判」とが逆接
になっている、ということになる。つまり、
「安冨はアゴラのかつてのメンバーであり、かつ、池田氏は安冨を褒めた」
<が>
「安冨は池田を批判した」
という意味になる。なるほど、安冨は裏切り者で恩知らずなひどい奴である。しかしそれは、多分に「日本的」で「情緒的」なもので、学術的議論とは関係がない。
「日本人に特有の話」
と池田氏は私の本の大半の内容を(読まずに)切り捨てているが、これは例によって私のことではなく、池田氏ご本人のことではないだろうか。
【東大話法規則6】自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
が適用されている。
こういうことを言うと、「いやいや、その『が』は、逆接ではなく、例の清水幾太郎が言っていた、たんなる無意味なあいまいな接続の『が』なのだ」とおっしゃるかもしれない。しかし、それではますます、「日本的あいまい」である。それ以上に、読者は、上の一文によって、安冨に対する悪印象を抱くだろう。特に「日本的情緒」に左右される人であれば。
(つづく)
そういうわけでのっけからパンチを食らってしまったので、退却して、読むのを一旦、中止して、晩ご飯を食べることにした。
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食事をして体勢を立てなおしたので、池田氏のご反論の検討に入りたい。
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私のブログやツイッターに対する匿名の罵倒は山ほどあるが、実名の批判は驚くほど少ない。今まで記事で反論したのは、中島聡氏に対してだけだ。本書の著者、安富歩氏からも何度かTBが来たが、論旨がよくわからないので放置していた。ところが本書では、なんと40ページにわたって私の記事が批判されている。これはお答えしないわけにはいかないので、長文になるが反論しておこう(個人的な記事なので、関心のない人は無視してください)。
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微妙なことだが事実と反することがある。私は彼のブログにトラックバック(TB)をかけていない。理由は簡単で、私はどうやったらTBをかけられるのか、わからないからだ。それでコメント欄に、ブログのアドレスを記して、「コメントを書きましたので、ご笑覧ください」というようなことを書いた。そしたらしばらくしたらコメントが承認されたので、「ああ、池田さんは都合の悪いものでも出されるのだな。」と思って感心したのである。ところが、しばらくして見てみると、私のコメントは見当たらなくなっていた。ゆえに、
「安富歩氏からも何度かTBが来たが、論旨がよくわからないので放置していた。」
というのは厳密に言うと正しくない。
「安富歩氏からも何度かコメント欄にブログのアドレスが書き込まれたので見てみたが、◯◯◯なので消した。」
というのが正確なところである。◯◯◯は想像するしかないが、「論旨がよくわからないので」は入らない。そういう理由であれば、一旦承認したものを、わざわざ消す必要はなく、放置すれば良いからである。
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安冨氏はアゴラの初期のメンバーであり、彼の著書を好意的に紹介したこともあるが、私の記事が「東大話法」だという批判は意味がわからない。東大に勤務する彼が、しがない私立大学に勤務している私に「東大」というレッテルを貼るのも奇妙だが、「お前の言い方が悪い」という日本人に特有の話は非生産的なので、論じてもしょうがない(これが放置した理由)。
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「彼の著書を好意的に紹介したこともあるが」というのは、『生きるための経済学』を書評されたこちらの記事である。今でも私は、このようにご紹介下さったことに、感謝している。改めてお礼を述べたい。
ただ、今、読み直すと、なぜ私がアゴラから抜けることにしたかがよく分かる。私の本の内容を、正しく捉えていただいていないのである。たとえば、
「(自由という漢語)を日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。」
という文章があるが、これはおかしい。まず「自由」という漢語を「無縁」という日本語に置き換える、といっているが、「無縁」だって漢訳仏典の言葉だから漢語である。それに、「自由」という日本語が、中世から使われている。それ以上に、「無縁」の解釈が問題である。自由に無縁を対応させたのは網野善彦であるが、網野は無縁の原理を「こっちから縁を切る原理」としているのである。こっちから切るから、自由になるのである。池田氏のように、「共同体から縁を切られるという意味」だと思ってしまうと、どうして自由と関係あるのか、サッパリわからない。私の本を真剣に読んでくだされば、決してこんなことはお書きにならなかったであろう。
なぜこんなことになるのかというと、本をパラパラっと見て、目に止まった言葉を適当に繋ぎあわせ、話を自分で想像して書いているからだと考えられる。そうなると、元の本が言っていることなど関係なく、彼の頭の中で捏造された本が論評されることになる。「藁人形攻撃」という奴である。私の今回の本も、大島堅一氏の本も、同じ目にあったのではないかと考えられる。
そういえばこういうことを良く見聞することを思い出したので、
【東大話法規則】本や論文を読まずに論評する
を追加しておきたいと思う。池田氏は一応、現物を手にしているようなので良心的な方であるが、東大(に限らず学界)では、論文や本を読まないで、人から聞いた噂だけで、著者に対する評判が定まってしまうことが往々にしてある。最近、私の研究所で紀要に投稿された論文が、審査している最中だというのに、外部でその論文の悪評が流れる、という事件があった。誰か審査に関わった者が、気に入らないので噂をばらまいたのである。これは完全にルール違反であるが、こういうひどい噂だけが流通することが多い。こんな卑近な例ばかりではなく、大抵の有名な学者の学説はこういう目に遭っている。たとえばアダム・スミスといえば「見えざる手」であるが、この言葉は『国富論』に一回しか出てこないし、その意味は池田氏の言うような「神のメタファー」などではなく、『道徳感情論』で議論されている「心のなかの他人の目シミュレーター」のことなのである。
さて、
「安冨氏はアゴラの初期のメンバーであり、彼の著書を好意的に紹介したこともあるが、私の記事が「東大話法」だという批判は意味がわからない。」
という氏の文章であるが、これは注目に値する文である。
どうして
「安冨はアゴラの初期のメンバー、かつ、池田氏が安冨の本を好意的に紹介した」
という命題と、
「池田氏の記事を安冨が「東大話法」と批判したのは意味がわからない」
という命題とが、
「が」
という逆接の接続詞で繋がるのだろうか。2つの命題は全然違った出来事に関することではないだろうか。もし両者に関係があるとすると、
「昔のアゴラのメンバー かつ 好意的」と「批判」とが逆接
になっている、ということになる。つまり、
「安冨はアゴラのかつてのメンバーであり、かつ、池田氏は安冨を褒めた」
<が>
「安冨は池田を批判した」
という意味になる。なるほど、安冨は裏切り者で恩知らずなひどい奴である。しかしそれは、多分に「日本的」で「情緒的」なもので、学術的議論とは関係がない。
「日本人に特有の話」
と池田氏は私の本の大半の内容を(読まずに)切り捨てているが、これは例によって私のことではなく、池田氏ご本人のことではないだろうか。
【東大話法規則6】自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
が適用されている。
こういうことを言うと、「いやいや、その『が』は、逆接ではなく、例の清水幾太郎が言っていた、たんなる無意味なあいまいな接続の『が』なのだ」とおっしゃるかもしれない。しかし、それではますます、「日本的あいまい」である。それ以上に、読者は、上の一文によって、安冨に対する悪印象を抱くだろう。特に「日本的情緒」に左右される人であれば。
(つづく)