なにも、分からない。すべて曖昧である。なにもわからない。霧の中のようだ、なにも見えない。どこに進んだらいいのかも分からない。それどころか、道さえも見えない。進みようがないのだ。だって道が見えないのだから。選択肢が3つありその中でどれを選べば良いのか分からない、という状況ではない。選択肢がまず見えないのだ。八方塞がりである。
分からなくてもいい、ゆっくり答えを探していこう、こんなことを言う奴ら。わたしの人生に責任がとれるのか。"分からない"という感覚も知らないくせに。なぜゆっくり探すのでは駄目なのか。あなたが90歳になったときに、東大の入学試験が解けるようになった。東大に入ろうと思うか?あなたは何股もの浮気を重ね、彼女にDVもしているクソ男である。彼女と別れたあとに彼女の大切さに気づいた。彼女に復縁を迫れるか?そういうことなのである。たかが17年生きてきただけで何がわかるんだと言う人もいるだろう。しかし物事は遅すぎては駄目なのだと思う。

ひとつだけ、分かっていることがある。わたしは友達といっしょに卒業したいのだ。それだけのために毎日学校へ行っている。きっとこのブログも読んでいるであろう。そうお前と卒業するために学校に行っているのだ。前回ブログを書いたときからもう半年が過ぎた。あのころはODにも手を出さず、本気で死のうとしたことはなかった。それが今では薬キメて学校に行き?300錠ぶちこんで救急入院し?飛び降り欲が押さえられず、教室の窓際に立って窓から身をのりだし?明らかに悪化している。クラスの中心的女子の楽しそうな黄色い声を聞いただけで号泣する女子高生がどこにいる。高2の冬は、とりあえず高3になるため、留年しないために死ぬ思いで学校に行っていた。今は卒業するために血反吐を吐いてでも学校に行くつもりだ。………わたしの人生は"卒業"でパタリと幕を閉じるのか?おそらくその後も続くであろう。卒業だけを拠り所に、頼りに、毎日生きているのにそこをクリアしてしまえばわたしはどうしたらいいのか。どうやって生きていくのか。大学に行けるのか。受験はどうするのか。仮にも自称進学校である。みんな受験モードで勉強時間、テストの成績、見違えるように良くなっている。そんな中でわたしは毎日椅子に座って授業をこなし、家に帰れば携帯、虚無に浸って寝る。学校に行くだけで限界なのは今でも変わらない。置いていかれる。いや、みんなが走っているのではなくわたしが止まっているだけなのか。わからない。とにかく、卒業後のわたしが全く想像できないのだ。
冬から春にかけて、あんなに"普通"に拘っていたにも関わらず、わたしは通信制高校へ編入しようとしていた。現実的に考えて、健常者と同じ生活を送るのは無理だと実感していたからだ。毎日帰ってきて、理由なく号泣し不安になる。焦燥感に駆られる。人と関わるのが嫌で嫌で仕方がない。結局、そう、お前と同じクラスになったからお前と卒業するために転校はしていないが。人と関わるのが苦痛で嫌なのは変わらない。このままどうやって大人になれようか。働けるのか。このまま生きていてなにになるのか。わからない。

そもそも思春期のこういった病状や境界性人格障害の原因はアイデンティティーの拡散である。おそらく今、それが顕著に表れているのだ。わたしは誰なのか、本当に生きているのか、わたしは何を考えているのか、わたしとは何なのか、生きるとは何なのか、正常とはなんなのか、わたしは何を思っているのか、わたしは何がしたいのか、わたしは死にたいのか死にたくないのか、この世界はわたしの作り出した夢ではないのか、すべて分からない。なにも分からない。生理の時に鎮痛剤を使う女性は多いだろう。鎮痛剤は痛みそのものの根本的解決ではなく、痛みを感じないようにしているだけなのだ。痛みの原因を治癒しているのではなく、痛みをその場しのぎで誤魔化しているだけなのだ。
リスカ、首吊り、OD、抗不安剤、気分安定剤、すべてわたしにとっては鎮痛剤であった。アイデンティティーが統一されるまでこの苦痛が続くのだとしたら、わたしはいつまで誤魔化し誤魔化し生きなければいけないのか。誤魔化して少しでも楽になれればいい、そう考えていたはずなのだ。ではいまは?何を考えている?なぜ自傷をする?自傷することで誤魔化せるのか?わからない。終わりのないマラソンを走っているようだ。永遠に苦痛が続く。その場しのぎで誤魔化しても根本的解決にはならず、しばらくすればまた苦痛がやってくる。わからない。どうすれば良いのかわからない。わたしに残された、楽になる方法は自殺しかないように思えるのだ。正常とは何なのか。平常のいつもの自分とは何なのか。何がおかしくて何が普通なのか。わからない。なんにもわからない。全てわからない。

なぜ私たちは、なにも悪いことをしていないのにこんなに苦しまなければいけないのだろうか。おわり。

















追記: 少女ふぜゐという歌がある。夢野久作の作品、少女地獄より"何でも無い"をモチーフにしている。主人公:姫草ユリ子は自分を嘘で塗り固めることによって理想の自分を創造し妄想に耽って生きるアラサーの女性。なにもない、貧しい自分を必死に嘘で塗り固めて品のある育ちのいい高嶺の花のような女性であろうとする。その嘘が暴かれると、作り出した自分を守るためにモルヒネを注射して自殺する。彼女は"嘘"という絶対領域、拠り所があり、それを失ったから自殺した。わたしは?わたしはなにを拠り所にして生きている?何によって作られている?わたしの"なにか"が崩れ落ちたとき、わたしも死ぬのだろうか。それとも、その崩れ落ちる"なにか(=アイデンティティー)"がないからこんなに死にたがっているのだろうか。わからない。