いつの時代も、悲惨な最期を迎えた歴史上の人物は生き延びていた、という生存説がまことしやかに伝わっていることがあります。
この地は、映画にもなった「天正伊賀の乱」 の舞台でもあります。
稲増家は伊賀地方で活躍した土豪であり、浅井治郎左衛門は伊賀忍術指南役でもあった。
日本人は判官びいきで、有名な人では源義経は逃げ延び、チンギス・ハーンになったなどあります。
まさか、お市の方までにも、そんな伝説かあったとは驚きました。
確かに、北ノ庄城落城の際、城は爆破で炎に包まれた為、柴田勝家公、お市の方の遺骸は見つかっておらず、羽柴(豊臣)秀吉は、柴田勝家の首級が見つからなかった為に柴田勝家の「金の御幣の馬標」 柴田家の家紋の入った「丸に二つ雁金の旗印」を京都市中を引き回し勝利の証にしたといわれてます。
お市の方生存説
北ノ庄城落城前夜にお市の方は脱出し、勝久寺に落ち延びた後、あちこちに潜伏しながら、元浅井家の家臣、浅井治郎左衛門の手引きで三重県伊賀市下友田で余生を過ごしたという。
三重県伊賀市下友田の浄光寺に浅井長政の墓碑があり、近くの民家に、あの、お市の方の、のど仏があるという伝説の地に向かいました。
この場所は有名な徳川家康の伊賀の山越えにも近い場所です。
浅井長政の名前の刻まれた墓碑は確かにありましたが、写真は控えました。
この地は、映画にもなった「天正伊賀の乱」 の舞台でもあります。
その後、浅井治郎左衛門は名前を「日比」「稲増」 と苗字を改め、今も稲増屋敷は現存しており、屋敷の土蔵にお市の方の「のど仏」が保管されていると伝わってます。
(写真の屋敷は当時の家ではありません。)
稲増家は伊賀地方で活躍した土豪であり、浅井治郎左衛門は伊賀忍術指南役でもあった。
残念なことに、現在の稲増家は非公開です。
もし、お市の方が、53歳まで生きたのであれば、何だかの形で3人の娘たちと会っていることでしょう。
お市の方の長女、茶々(淀殿)は、天下の秀吉の子を産み、揺るぎない力を持っていたので、実の母親を伊賀の山奥に隠しておく必要はないと思いながら、お市の方が、53歳で亡くなったのであれば関ヶ原の戦いの後の豊臣家の滅亡(茶々、孫の秀頼の悲惨な最後)を知ることなく逝ったことになるので、良かったのではと思うのでした。
お市の方の娘、三女、お江は天下人豊臣秀吉の甥、豊臣秀勝と2回目の結婚をし、その間に女子を1人儲けたが、2回目の夫、秀勝は朝鮮出兵の際、病死しており、秀勝とお江の娘の「完子」 は叔母にあたる、茶々に養女(猶子)として引き取られている。
その後、「完子」は摂関家である九条家に嫁いでおり、子孫である九条節子様は大正天皇のお妃になり昭和天皇の母になりました。
現在の皇室は、お市の方、浅井長政、豊臣家、織田家の戦国時代を代表する人たちの血を脈々と受け継いでいるのです。









