ウクライナの痛ましい情報に、日々胸の裂ける思いでおります。

 私たち医療に携わる者は、目の前におられる、病んでおられる方について、その方の訴えを聞き、原因を探り、それをできる限り取り去ることを目的とした仕事をしております。これは仕事というよりは人生そのものです。ここはおひとりひとりを対象とした非常に各論的な世界であり、この各論がとても大切、と思っているわけです。

 このような形で生きているからでしょうか、私は健康で生きてゆきたいと思っておられる個人を、意図して殺す、という考えを受け入れることが全くできません。結果として殺してしまうことがあっても大義の前には仕方がない、という考えであれば、その大義は間違っている、と確信しています。一人の命を救うためにこれだけの努力が必要なのに、何千人、何万人のレベルを意図的に殺す、ということは一体どういうことなのか?

 我が国でも、親の世代はその形の間違った大義が国中に横溢していた。その大義に国民のかなりの部分が乗っていた。その大義が自国民を200万人以上殺し、海外でもそれに匹敵する人を殺し、生き残ったものの生活を破壊した。遅きに失したにしても昭和20年に日本の大義が破綻して良かったと思います。これは私だけの思いではなく、日本人の大多数がそう反省したのだとおもう、だからその痛切な反省としての戦後70年の確固とした平和があった。戦争をしない、こちらから攻めない、これを当たり前と思う日々があったわけです。

 この間に海外では、今のウクライナのような状況の小型版が随所にあったわけだが、私はその頃は患者さんと向き合う生活をしていなかったこともあり、今よりよほど他人事で、これほど痛みを感じなかった気がする。この地で診療を始めて、この思いが強くなったように思います。

 ウクライナ戦争について、たくさんの思いがありますが、その中で私にとって最も大切と考えていることは、「結果として殺してしまうことがあっても大義の前には仕方がない」という形の間違った大義を絶対に認めない」と言う点です。そのための、という戦術論のはるか手前にあるこの大前提を強く思い、体から滲み出るような確信として持ち続けることが、まず必要、そうし続けたい、と考えている次第です。

 テレビでみた、ウクライナの80歳の老人が粗末な武器を手にして、この国のために自分の命は捧げて良い、と語っていたシーンがとても印象的でした。これは彼の大義なのだと思いますが、この局面でのこの老人の大義は、私には全く共感できる者であったことを付け加えておきます。

(寄稿を依頼されましたので、私が昨今もっとも強く思っていることを文章にしてみました。皆様のお考えを聞かせていただけレバ大変幸甚です)。