コロナ騒動による延期を契機とする頭狂オリンピックのゴタゴタはここにきて頂点に達したと言える。通常オリンピックといえば国威発揚、内外に国の威信をアピールするはずが、逆に日本の至らない点を世界に知らしめる結果となっている。そういう意味では「記憶に残る」オリンピックになったと言える。

 自分的にはオリンピック開催の是非はどうでもいいが、世間的には賛成派と反対派の実に見苦しく滑稽な論戦が各所で戦わされている。コロナに対する膾を吹くまでの警戒感、恐怖感の煽り。世論を無視するような振る舞いの一方で過度に反応する国、都、実行委。人選を含む、手続きや体裁の不備。それぞれのポジションを巡る一貫しない主義主張。

 日本の来るべき未来の姿を明示、暗示する世間の狂騒である。
 

 大学という組織の社会的意義を考えるに大きく2つある。
①高度な学びの場
②国の知的インフラを向上、発展させる場。

 しかし、この意義の他に無意味ながら実質的に就職予備校としての位置づけが大学の社会的役割になっていることは言うまでも無い。つまり別に何かを学びたいわけではなく、研究したいわけではないがとりあえず就職を有利に進めたいが為に入る。そういう大学生が全体の9割以上を占めている現状がある。

 そのために日本の大学のレベルは世界的に見ても下降の一途をたどっており、その傾向はおそらくしばらくの間は変わらないだろう。だから上記に挙げた大学の役割はもう他国に任せてもいいと思う。思うが、あえて儚い日本の大学の改革に期待を寄せるとすれば次に挙げる改革を促したい。

 1 一定偏差値以下の大学を廃止。あるいは国からの補助金をすべて廃止して完全に民   営化とすること

 2 入試制度を①と②の観点から分けること。

 3 大学入試レベルの国家認定試験を設けること

1について。今日本にある大学の半分以上は非常に低レベルでその気になれば小学生でも合格できるくらいの水準である。また学習意欲もなく、研究において大した業績を上げることがほぼ絶望的な学生がほぼ100%を占める中で、ここに補助金の名目で予算を振り分けることは国家の損失であると言っても過言ではない。

 もちろん本当に学びたいという意欲を持った学生でレベルの高い大学に行けないひともいるだろう。その場合は塾や予備校、英会話スクールと同じ位置づけで完全民営化のもと設立すべきである。もはやそれは趣味としてしか言いようがないのだから。

2について。学びたいだけの学生の場合、つまり①に該当する場合には入試科目を現代文、漢文、古文、英語、数学、物理、生物、化学、地学、世界史、日本史、地理、政経、倫理の全教科にすべきである。①の場合は、リベラルアーツとして大学に進学しようとし、また補助金が入るのであるから相応の学問的興味、レベルを一定以上に限定するのは当然である。

 その場合文学部、経済学部、法学部等のいわゆる文系学部はすべて教養学部として一本化し、期間を2年とし、専門的なことをさらに学びたい場合には単位制ではなく成績順とする。

 その一方で②の場合には、例えば物理学部ならば、センターのような一斉試験を経ずに物理だけの1教科試験にする。本当に優秀な生徒をただの学問をする自由の権利の行使として見るのではなく、国家成長戦略のための人財として見なすべきである。アインシュタインのような特異の才能を持った人物を英語や古文、現代文、歴史ができないというだけで研究の場に加えないというのは愚の骨頂である。

 当然試験において求められるレベルは①の比では無い。それだけに合格者には授業料免除はもちろんアルバイトなどという無駄な時間を費やすことのないように一定の生活費も支給すべきである。

 社会で働く場合の最低限の知識は中学まで十分であり、高校やまして大学に行く場合にはそれ相応の教養を要求されると見なされるべきである。特に物理、化学、生物,地学、現代文、統計学は必須であると思う。統計学は数学のカリキュラムの中にも取り入れられて日本では重視されつつあると言われるがその逆で、日本ではまだ軽視されていて、統計学はそれ自体1つの教科として数学と分離して修められるべき学問である。

3について。大学を就職予備校の、あるいは受験ゲームのスコアとしてみなす風潮は日本はかなり強い。東大理3に合格する学生もそのうちほんとに医学部を志しているものは何割だろうか。受験ゲームのトップの証として目指す人も少なくない。

 入社したい会社には入れるのであれば、受験ゲームのトップとして認定されるのであれば別に行きたくない大学や学部で無為な4年を過ごさなくてもいいと考える学生は多いと思うし、またそういう生徒のために補助金を使うべきではない。

 ここは高校課程あるいはそれ以上のレベルを含む国家認定試験を設け、級、段位制あるいは点数制にして評価するシステムがあっていい。企業もそのスコアを持って就職選好の材料として使えばいいし、そういう風潮が出来ればいい。

 大学で学ぶ以上は単位や出席を厳しく管理し、意味も無い就活やアルバイトを理由に1つでも欠席する場合には退学ではなく放校、除名処分にすべきである。大学に入ったら入学中に就活はできない。それくらい学問の場としての大学と就活の手段としての受験ゲームに仕切りを持たせるべきだ。

 自分としては、日本の研究の府、学問の府が堕落して技術立国日本が墜ちていく様を見てみたい。そしてアンシャンレジームが崩壊し、明治維新や太平洋戦争後のように根底から社会と国民の意識が変わり、復興していく姿を見てみたい。

 幸いにも世界の変化のスピードは加速しているので、非効率で無意味で未熟な日本のシステムは早晩厳しい試練に晒されるであろう。そのとき地に埋もれた人材に光が当たり力強く勢いよく成長することになると確信している。

 コロナ騒動による自粛の嵐でテレワークが普及し始めた。普通の職場だけでなく学校でも映像授業を行う自治体が増えてきて、インフラやユース面でも整備が拡充しつつある。
9月新学期制の動きもあるが、ここは映像授業における教育制度の変革の可能性について考えたい。

①いじめ問題の解決
②飛び級制度の実質的実現
③教育の地方格差の是正

 ①について。いじめが起こるそもそもの原因として学校、教室というソーシャルな密室状態が大きな要因として挙げられる。本来は学びを主体とする場が「身体」と「人格」を付随物として否応なく持ち込むことにより、人間のいじめ本能=異質なものにたいする排斥、弱者攻撃による連帯性の高揚、人格の優越性確認、欲望発散などが副作用として起こる。

 生徒には授業をライブか映像かを選択するオプションを与えることで、こうした「密室」状態を避けることができる。また従来は怪我や病気などで自宅待機する場合、生徒はそれによる授業の遅れを自己責任でカバーしなければならないというハンデが生じていたが、これも映像授業によりほぼ解消できることになる。

 もちろん学校という教育装置の役割には単に学問を学習する場としてでなく、コミュニケーションを媒介とした人格形成、人間関係リテラシーの意味もある。集団生活における様々な摩擦を経験することが必要になることも分かる。しかし、それはウイルス耐性をつけるワクチンのようなもので、過大な毒性をはらんだ摩擦は逆に人間の快復力を弱めることになってしまう。

 その場合は学習する場を隔離し、普段の授業は映像で、学校は試験を受けるためだけに行くという措置も取ることができる。いわば、人間関係の「緊急事態」を回避するための方策として映像授業は有意味である。 

 ②について。元来学校には授業について行けなくなる落ちこぼれだけでなく、学力が突出していて学校が出席確認だけの場になるような「浮きこぼれ」の生徒が少なからず存在する。一斉授業の建前、学力の差を考慮せずに同質レベルの授業を異質レベルの生徒に受けさせるのは平等性の悪適用である。能力や興味がある生徒にはどんどん先取り学習を進めていくのが国にとっても世界と渡り合える人材育成戦略とも合致する。

 さきに述べたように、学校は学習だけの場ではないから他人とのコミュニケーション能力形成の場を持たせなければならない。それでもそれは比較的レベル差が問題にならない、体育や美術、技術、クラブ活動にその役割を担わせることで事足りる。

 またコミュニケーション能力形成の点でも現在の同地域、同年齢だけが集まる場だけの状態よりも、異地域、異年齢を交えた場の方が様々な刺激や能力を獲得できるだろう。

 飛び級制度が日本で根付かない理由の最大の要因は、ゆがんだ平等性の過剰な社会意識である。つまり、優秀な生徒を飛び級の名目の元に分けることは、他の平均的な生徒に対する差別につながる、あるいは見えることにある。しかし、それももっと根本を探れば、教室に「身体」と「人格」を持ち込むことから生まれる現象である。映像授業によりその「差」を不可視化、不実感化することでほとんどその状態は解消できるだろう。

 もともと学習は個人に属する物であって、戦時の食料配給制のような平等性が必要とされるものではないのだ。

③について。これは飛び級制とも関連するが、教育の地方格差。特に大都市圏と地方の学習制度、学習オプションの選択の差はかなり大きい。いわゆる私立中高一貫校は大都市周辺にしかなく、公立中の生徒がしこしこと中学内容をのんびりと3年かけて学んでいる間に、彼の生徒は中学生から高校内容を先取り学習しているのである。
 
 地方都市において高校内容の先取り学習は可能か。一昔前と比べて参考書が充実している今であっても生徒自身で先取り学習することは容易ではない。大学受験を念頭に置いた中学生対象の学習塾さえ地方ではほぼないと言っていい。それは地方においてはビジネスとして成り立たせるくらいの需要がないからだ。かくして地方の学生は大学受験の勉強を「高校から」始めるという大きなハンデを負うことになる。

 映像ならば地理的な隘路を乗り越えて、全国の意欲ある学生に高度で個人に特化した指導を施すことができる。



 映像授業におけるツールは現時点においてもかなり充実してきているが、唯一の不安材料は通信の安定性だ。しかしそれも5Gの拡充によって解決されるだろうし、またよりいっそうツールは改良されていくだろう。全国の学生が好きな時間に好きな場所、好きなスタイルで好きな学習ができる環境になったときにこそ本当の「教育の民主化」は実現される。

 論説文の解き方の講義でよく言われるのは、主張は抽象と具体を繰り返すということである。

 

 抽象的、一般的なことを言ってばかりだと分かりにくいから、ときに具体例や比喩、対比を交えて主張をする。そして具体ばかりだと分かりにくいからまた表現を変えたりして抽象的表現を繰り返す。この抽象から具体、具体から抽象の往復により読み手は主張が融解するように理解できるようになる。

 

 実はこの話は参考書においても言えることだと思う。

今は参考書も一昔前よりも質、量共に充実していて、実際高校に行かないで独学でも余裕で大学合格までいけるようになっている。参考書は大きく分けて、インプット系、アウトプット系に分けることができる。

さらにインプット系は講義系、辞書系に分けることができる。

 

 辞書系がいわば抽象型で講義系が具体型である。講義系参考書の走りは30年以上前に出版された「英文法講義の実況中継」だと思うが、これによって語り口調で基礎の基礎から説明するという参考書の形ができた。この講義系の参考書も基礎だけ、発展だけと種類が分かれてきている。

 

 この講義系の参考書の出現によって、従来なら分からなくて挫折していた学生が助けられ、基礎から発展への橋渡し役を担うようになった。ただ、学力が上がるにつれて講義系の説明過多が逆に混乱を招き、理解が伸びない一因になることがある。まさにポルノグラフィティの「サウダージ」の歌詞にある「少しずつあなたを分かるようになって、少しずつあなたが分からなくなっていった」状態である。

 

 そういうときには辞書系参考書にすすみ端的な抽象的説明を読むと頭の中がクリアになることがある。辞書系参考書とは言ったが、実は教科書が一番その役に適していると思う。教科書が一番分かりやすく、要点を的確に捉え、余計な脚色を排して説明してあるのである。結局、教科書が本当の意味で「読め」れば、あらゆる入試問題は解けるのであって、しかし教科書を100%読んで消化吸収するのはなかなか難しいこともまた事実である。

 

 だから講義系の参考書から教科書、教科書から参考書と往復することにより、具体から抽象、抽象から具体のサイクルで頭を溶解、凝縮、拡散、収束することでより学力は高まるのである。

 

 また巷でよく言われるのは、参考書は1冊に決めて何度も繰り返せということである。これはアウトプット系のいわゆる問題集ならば確かにそれは言えることかも知れない。しかし、講義系の参考書の場合は強ちそうとも言い切れない面がある。講義は語りであるから、同じ事を話していても微妙に相性というか語りの「向き」と「速さ」のベクトルが違うことがある。例えるならば、あるゴール地点に誘導するのに泳がせるようなのもあれば、森の中を歩かせるものもあり、空を飛行させるものもあるのである。

 

 それによっても理解の仕方に相性が存在し、ある人にとってはわかりやすくてもある人にとっては分かりにくいと言うことが大いにあり得る。その際に最初の1冊は自分にとって一番分かりやすい物を選ぶにしても、1冊にこだわらず何冊かをクロスさせることで、つまり歩き、泳ぎ、飛行を適宜入れ替えて読むことで理解が深まるということがある。

 

 自分は宇宙物理に関する本が好きで出版されている一般読者向けの本はほぼすべて読んでいるが、なかには一読しただけではその中身が捉えにくいことがあった。そこでまた違う著者のほぼ同じテーマの本を読むとあー、こういうことだったのかと分かり、さらに別の著者の物を読み、なるほど、こういうことかと理解が深まり、そうして何冊も読む。

 

 自分は本を読んだらそれを記録するサイトで読んだ日付とそのときの評価をつけるのであるが、あるとき物理の本を読んでいたらとてもわかりやすかったでの読後にサイトに登録しようとしたら、それが初読でなく以前に読んで登録してある本であることがあった(自分の場合はそういうことが非常に多い)。そこで驚いたのはなんとその時の評価が最低評価の星一つであることであった。自分は星5つをつけようとしているところだったのに!

 

 つまり、その時はその本の語りについて行けてなかったのだ。まわりまわっていろいろと知識地図を構築している間にその分かりづらい本はわかりやすい本に変化していた(もちろん変化したのは自分だが)。

 

 本ではこういうことがよくある。何冊かを迂回して初めてその本の良さや特徴を掴めると言うことがあるのである。講義系参考書の場合はこういうことがあるから、1冊に決めるのは危険と言えば危険である。もちろん最初の1冊で腑に落ちるまで理解できるということはある。でもそれは結構レアケースであると思う。何冊かを読んで合う合わないが判明することが多いだろう。そして大事なことは初読で合わないと思った本でも何冊か回した後で非常に分かりやすい参考書に化けることがあるのだ。

 

 

新学期の開始は9月に 宮城県知事が新制度導入を提案

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200427-00010003-khbv-l04

 

 全面的に賛成だ。そもそも4月開始はいろいろな面で問題がある。それは何と言っても入試制度の絡みである。新学期が4月から開始するとどうしても入試は1月から3月に行わなければならない。

 

年末年始の忙しさと重なる

寒さのため風邪やインフルエンザと重なる

雪が降って交通機関が乱れる

花粉症の時期と重なる

 

 つまり本来の学力が十分に発揮できない可能性が高く、それは東北北陸などの地方都市において顕著である。試験はできるだけ公平でなければならないが、気候面においてはその点は保障されてない。この不公平は絶対に改善されなければならないことだ。

 

 もちろん新学期を四ヵ月ずらすというのは通常の状態ではかなり難しい。四ヵ月の穴をどうやって埋めるのかという難題がある。それが今回のコロナウイルスの自粛で図らずもそれほどの混乱もなく全国一斉で移行しやすい条件が揃っている。また実際に経済面やインフラ面、家庭状況面でこの自粛期間はかなり差が広がっている。そういう移行のしやすさや必要性の面でもいま9月入学に制度を移行するのは絶好のチャンスだと言える。

 

 

 漫画家の蛭子能収の人生相談で「やりたいことが見つからない」という相談で、それに対して「やりたいことが見つからないうちは金を稼げばいい」というのを以前読んだことがあり、なるほどなぁと思ったことがある。

 若いうちは、いや老齢になってもだが、カネ稼ぎを中心に生きている人がいる。そういう人を見るとなるほど確かに「やりたいことが特にない」と思える人が多い。暇つぶしやストレス解消が酒を飲むことやギャンブル、ラインなど「人間的」動物欲求をただ満たしているだけである。

 「趣味は仕事」という人も多いが、本当に仕事を趣味にしているというよりも、時間の潰し方をあるいは人生の余暇の過ごし方を知らないことの言い訳として使っている言葉のように思う。

 自分流に年を重ねて重考するに、やはり若い頃に至った結論と変わらず、人生を有意義に過ごすには「時間・健康・夢中になれるもの」を持つことだと思う。その中でも1番難しいのは寝食を忘れるくらい夢中になれるものを発見、持つことだ。

 働く必要の無いほどの金と十分な時間があったときに何をして過ごすか。この問いに自信を持って答えられる人はかなり少ない。世間的に金持ちとみられる人でも、え、その程度の趣味しかないのと驚き呆れることが多い。単なる自分の趣味じゃないかと言われるかも知れないが、読書をしない、ゲームをしない、文章を書かない、散歩をしない、学習をしないのは明らかに人生を損している。

 それにこれは別の記事でも詳しく書こうと思っているが、自分の嫌いな物、人に執着して非難やあてこすり、嫉妬をしているのも人生を無駄に過ごしている。その時間を夢中になれるものに投入したり、探すことに向ける方がよほど生産的である。

 自分はそれなりに夢中になれるものがあるが、それでもまだまだ増やせるならどんどん増やしていきたいと思っている。学生の時は映画や本を読んでそれについて感想や批評をかわしたりする場があったが、そのときはそれほど貴重な時間だとは思っていなかった。
この頃ではそういう場を持つことは皆無になってきている。(そもそもまわりに本を読む人や映画を見る人がいないので)それでも、なんとかそういう人を探して月一でも読書感想会みたいなものを持てたらいいなと思う。

 

 今年1番世界を騒がせているコロナ。政治も経済もニュースもそれしかやってないんじゃないかってくらい大騒ぎをしている。ぶっちゃけ自分は全然大したことないと思っている。

 一部の有識者はきちんと言及しているが、毎年猛威を振るうインフルエンザと比べるとコロナはそれ以下である。
インフルエンザ
毎年の世界の感染者 10億人~20億人(日本は1000万人位)
毎年の感染死者数   30万人~50万人(日本は10000人位)
 
コロナ
感染者数       160万人(4/20現在)(日本は10000人)
感染死者数       16万人      (日本は170人)

 圧倒的にインフルエンザの方が被害は大きい。しかもインフルエンザはワクチンがあっても毎年これだけの被害が出る。一方コロナワクチン無しでこの程度である。
確かに死亡率だけを見るとコロナは致死率が高いように見えるが、このコロナ騒ぎで医療崩壊が起こり十分な医療を受けることができなかったことが影響していると考えられる。

 それでいてインフルエンザは毎年それほどパニックにはならない。そして死亡する確率が高いのもコロナといっしょで60代以上がほとんどである。

 全体的に考えると今回のコロナ「騒動」は医学的な問題というよりも社会学的、人類文化的な問題の範疇であると思う。つまりは、人間の特性として「初物」と「みんなが騒ぐ」ことには必要以上に過敏に反応するということであろうと思う。

 だから問題なのは「コロナ」がいつ収束するかではなく「コロナ騒動」がいつ収束するかにかかっていると思う。なにより騒動を大きくしているのはマスゴミによる煽りなのである。世間の耳目を集めやすい=視聴率を取りやすいという側面と外出を控えさせ在宅率を高めてテレビを見る人が増えやすいようにしたいとするマッチポンプならぬ火事場泥棒的なマスゴミの性分が今回の騒動を産んだといっても過言ではない。

 しかしながら、経済が萎縮し、これから広告収入が大幅に落ち込むことになるのは必至の状況であるから、おそらくマスゴミのスタンスはだんだん煽りから沈静化する方向に変わっていくだろうと予測する。

  FXを初めて2年半あまり。あまり芳しい利益は上げてない。株とは違い、FXにはFXの独特の動きがある。その動きを捉えるためにいろいろと試行錯誤してきた。使うツールはFXトレーダーなら誰もが知るMT4。数百種類のインジケーターを試してきては改良し、廃棄し、また採用し、また廃棄するの繰り返し。

 そこで見つけた1つの魔法インジがある。それを「サイン」と仮に呼ぼう。逆張りのインジである。これは不思議なくらいにトレンドの天底を捉える。どうしてそうなるのかは全く分からない。恐らく人間心理が影響しているのだろう。外部要因無しに人間の感覚でトレードしているならばほぼ100%このサインの動きに従う。

 このサインを発見した当初はひたすら稼ぎまくった。トレードに聖杯は無いと言うが、これはまさに聖杯なのではないかと思うくらいだった。だが、やはり聖杯では無かった。

 逆張りトレードは一般にナンピンを伴う。これが決まれば勝率は100%になる。しかし、値動きにはレンジブレイクや指標や要人発言による逆張りサインをものともしない一方的なトレンドが発生する。これがあると際限なきナンピンを余儀なくされ、膨大な含み損を伴ったポジションができる。余力に余裕がないとやがてロスカットになり、それまでの利益をすべてあるいはそれ以上に吹き飛ばす。いわゆるコツコツドカンだ。

 つまるところ逆張りトレードの唯一にして最大の欠点はロスカット(LC)基準を設定しにくいことだ。それゆえに含み損は一方的に含み上がる可能性があり、また通常トレードでも最初からまとまったポジションをとりにくい。

 この逆張りトレードの欠点は十分認識はしており,また自分のFXトレードをするうえでの長年の懸念であった。ただ通常では高い勝率と利益をもたらしていること。自分が逆張りが好きなこと。そういうこともありこのトレードスタイルからは抜けきれてなかった。

 だが大きなポジションをいれることができるトレードでないと、今の資産を大きく増やすことができないのは確かであり、それもずっと懸念していたことであった。

 サインのインジもLCポイントが設定しにくかった。そしていろいろ改善しなくちゃいけないと案じ続けてきたとき、トランプ発言が来た。一気に2円以上の円高になった。ナンピンをしたもののポジションの買値ラインまでは到底戻りそうに無いところまで行ってしまった。明確な損切りラインを意識はして無かったが、裁量にて損切り。

 実は二月にも大きな損切りをしていて、合わせるとトータル収支はマイナスになった。結局のところ今のトレードスタイルでは先は無いと判断した。そんな折、手にしたのが及川圭哉氏の「ガチ速FX」だ。

 読んでみて腑に落ちることが多く、またいろいろな気づきを与えてくれる本だった。及川氏と使っているインジが異なるので、同じ手法をするわけではないが、全体的な相場観、とりわけ損切りに対する考え方で共感することが多かった。

 損切りを入れると逆張りトレードは大きく制限を受けることになるので、通常は順張りトレードに移行することになる。だが、「ガチ速」を読んで、損切りをしっかりと入れて且つ柔軟な逆張りトレードを行えるヒントをもらった。

 この一週間はドル円、ポンド円、ユーロ円、ユーロドルのチャートを改良し、LC込み逆張りシグナル、名づけて「イカロス」を眺めていよいよトレードにおける確信を得た。逆張りインジサインに次いでトレンドの体勢を的確に示すインジ「Gライン」を発見。

 納得のいく損切りラインを見つけたことで、今までよりも大量ロットで初動ポジションを打つことができるようになる。

 ということで、まだ実際にはトレードしていない。とはいっても、これまでに何十回もトレードシステム改良をしてきた中で今回ほど納得のいく改良は株、先物、FXを含めても初めてだ。

 このトレードの結果は早ければ三ヶ月後、遅くても年内に報告したいと思う。

 

 

1999年7の月に恐怖の大王が来るだろう。

 

 来なかった。

 

 占いや宗教、人の言うことをまだ信じていたうぶな少年時代、ノストラダムスの大予言を聞いて心底震え上がった。まだ30にもならないうちに死ぬのかと。1999年というのはそうでなくても何か起こりそうな感じがした。何事もなく2000年(ミレニアム)が来るわけがないと。

 

 何事も起こらなかった。社会的にもプライペー的にも。あっけなく、1999年の7月は過ぎた。