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守護霊からのメッセージ
巷では、また洗脳という言葉が飛び交っている。
洗脳というのは、暴力的にとか強制的に信じ込ませるという意味がついている。
そのような手筈がなかったのなら、マインドコントロールというような表現になるだろうか。
どちらにせよ、何かをとても強く信じ込んでいる人を、日本人はとても怖がる。
それほど強い制限を受けずに、程よく自分の生活に活用している教えなら、信仰という表現になるのだろうか。
それでもきっとあまり良い言い方はされないのだろうと思う。
初詣も神社巡りもクリスマスも大好きな日本人は、実は大の宗教恐怖症なのだ。
そもそも、なぜ人は宗教に入信してしまうのだろう。
実は新興宗教に限らず、多くの人が自分以外の誰かに、自分をコントロールされたがっている。
いつ、何を、どのように、どうしたらいいのか。
それを誰かに決めてもらいたがる。
だから、自己啓発セミナーに人は集まるし、マニュアル本はよく売れる。
あまりにも生き方が自由になり、何を選んでもよくなると、選択肢がありすぎて、かえってどうしたら良いのかわからなくなってしまった人が多いのだ。
誰もが自分の決断に自信がない。
自分を肯定し、自分の未来に自分の代わりに責任を持ってくれる〝神〟を探して歩く人は多い。
こういう人は私の元にもたまに出現する。
事細かく、自分の行動を決めてもらいたがるし、褒められたがる。
このブログをよく読まれる方はご存知のとおり、私も守護霊も、こうしなさい、ああしなさい、は言わない。
天界は「人それぞれです」と言うし、
守護霊は「自分で決めなさい」と言うし、
私は「依存しないでください」と言う。
むやみに褒めないし、持ち上げないし、止めない。
皆、正論しか言わない。
そうすると信仰したい人々は、とてもガッカリする。
自分の代わりに決断して欲しかったのに、それはしないと言われ、
ガッカリしたり、中にはムッとした顔で、ここを去る人もいる。
ある日のこと、なるほどなという光景を見た。
そこに集まっていたのは、私と出会った頃には確かに〝信仰先〟を探していたのだけれど、
良い意味でそれは諦め、
自分のことを自分で決めることの気持ち良さに気付いた人達。
午前中のセミナーのあと、一旦休憩を取り、午後にまた集まることとなった。
軽くカフェに行きたい人。
昼食をしっかり食べたい人。
1人になりたい人。
誰かと話したい人。
《私カフェいこうかな》
『あ!一緒に行ってもいいですか?』
《いいですよー》
「私読みたい本があるからひとりでいきまーす」
[私は食べます!]皆笑
〈ではー〉
〔またあとでー〕
これは仲良しの人たちの会話ではない。
ここで、ほぼ初めての会話を交わしたのだ。
みんなどうするの?
私はどうするのが正解?
という、あの息苦しい空気もなく、他人の様子を伺う言葉が誰からも出てこない。
それぞれが、ほどよく気を使ったり使わなかったりして、ぱぱっと自分で行く先を決めていた。
数ヶ月前までは人の評価を気にして、オドオドと自分の意見を胸の中に隠していた人たちだ。
みんな変わったなぁと、言葉や表情だけではなく、凛と美しくなったその後ろ姿を見ていた。
自分のことは自分で決めた方がいい。
それは自分で決めるという道しかないという意味ではない。
自分で決める気持ち良さは、知っておいたほうがいいということだ。
たかが休憩の過ごし方でさえも、自分がどうしたいかを自分から発信できるのは気持ちがいいはずだ。
その積み重ねが自信を作る。
この世は断られることの連続なのだ。
けれど断られることがそのまま嫌われているわけではないことを知るのに、
そんなに時間はかからない。
因みに、まったく何も信仰していない人はいない、たぶん。
宗教に対する恐怖心もひとつの信仰、または洗脳である気がするし、
特定のアーティストの熱狂的なファンであったり、日本固有の習慣や思考を絶対的なものだと信じ込んでいたり。
健康志向も行き過ぎた人を透視をした時には、
なにかを強く信仰している人と同じオーラ色が視える。
信仰するなにかが、時には必要なこともある。
ただ依存が芽生え、それがないと困るとなると困る。
すべてそれに決めてもらおうとするのは、天の本意ではない。
迷ったり間違ったりしながらも、コツコツとじぶんで歩く。自分で決める。
それはほんの小さなことからでいいから。
「転ばぬ先の杖になられては困る」
私が守護霊によく言われる言葉で、もっとも気をつけていること。
充実感も自信も、困難の先にあるのだ、いつも。
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