加藤和彦さん追悼 きたやまおさむ : 転載
これは新聞記事をスキャナーで変換したものです。ほぼ同年だから・・・。何とも表現のしようがありません。
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天才で厳しい批評家、でも天使の微笑み 音楽家・加藤和彦さん追悼 きたやまおさむ
私は生き残ってやる。それが最後の共作
音楽家の加藤和彦さんの訃報を受け、44年前の京都での学生時代に加藤さんらとバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成し、関西フォークの草創期を築いたきたやまおさむさんが追悼文を
寄せた。
死んだ加藤和彦には、二人の加藤がいたと思う。一人はミュージシャンであり、舞台の前面で演奏するアーティスト。そして、もう一人は、その演奏を厳しく見つめて批評する加藤である。
舞台では実に優しい音楽家だったが、楽屋で怒るとこわかった。ある時など、私の代わりに、スタッフに対しカンカンになって怒ってくれたこともあった。
稀代の天才は表面的には遊んでいるように見えて、それを厳しく見つめる評論家のような分身を自らの内に抱え込んでいる。厳しい加藤は、もちろん自分自身にも、そして共作者の私にも厳しかったし、私が何回書き直してもダメ出しが続いたものだ。
ところが、良い作品ができた途端に、天使のように微笑んでくれた。忘れもしない、「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞ができた日、「最高だよ最高」と言ってはしゃぐ電話の声が今でも耳に聞こえる。
時間にして、彼の作曲が1日、私の作詞が1日という短さだった。書き直しは全く求められなかったし、加藤の予測の通り、曲の評判は上々だった。
ところが、加藤宅からの最後の電話は、彼自身の訃報だった。しかも今回はやり直しがきかない。取り返しがつかない。
ふと思い出しだのは、生前、互いの葬式では「帰って来たヨッパライ」を流そうと言って、酒を酌み交わしたこと。エンディングの木魚とお経が「ぴったりだ」と二人は腹を抱えて笑った。もちろん、それも今では悪い冗談でしかないが。
彼の自死は、自らの人生という「作品」について、もう一人の加藤和彦があまリに厳しくて、自分で自分を追いつめた結果、こういう結末になったのだと私は考える。そして、このような「死んじまった」というエンディングについて、何度も共作を重ねてきた私に
何の相談もしないで「作品」を放り出したことが悔しい。
そこで、作詞家としての私としては、今度天国に行くまでは、オラは生き残っただァ、と歌いながら加藤の分まで生きて生きて生き残ってやりたい。天国のあいつに「格好が悪い」と言われようとも、またどれだけダメ出しされようとも、何度も書き直してやる。
それが加藤和彦と私にできる最後の共作であり、フオークル最後の演奏なのだ。
(精神科医・作詞家)
【きたやまおさむさん本名北山修。 46年兵庫県生まれ。加藤和彦さんらとフォークソンググループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成して活躍。解散後は精神科医。ヒット曲「戦争を知らない子供たち」の作詞でも知られる。】
ここは一度も使ったことが無いなぁ
いくつもブログなどあって、何が何だかわかりません。
メインはここではないけどね。
大昔にLYCOSというプロバイダーがあって本名で書いていました。
けど、今はみんなが使う時代になってしまったから適当な名前です(笑)
さて、今日はパートに出ますがデスクワークでメールが中心です。
ここに画像フォルダーと言うのがあるのですね。
ユリカモメの新聞記事をスキャナーで保存して縮小したものを載せました。
さて、寝ましょう。
