違法な殺処分はストップさせよう!
違法な持ち込みもストップさせよう!

ということで、違法な殺処分に関する、「殺処分目的での行政への持ち込みは引き取り拒否できるのか」について書きました。

殺処分の実態の中で、合法的殺処分は法的にもどうすることもできませんが、違法殺処分は止めることができるので、違法殺処分の実態や法理を行政や活動家に教えてあげてください。少なくとも我々だって殺したくないんだという行政は積極的にこういった正しい解釈を採用するはずです。そうでない行政は殺したい行政だといえます。


まずは、関連する法律から書き出してみました。

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動愛法35条 犬又は猫の引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。ただし、犬猫等販売業者から引取りを求められた場合その他の第七条第四項の規定の趣旨に照らして引取りを求める相当の事由がないと認められる場合として環境省令で定める場合には、その引取りを拒否することができる。
35条2  前項本文の規定により都道府県等が犬又は猫を引き取る場合には、都道府県知事等(都道府県等の長をいう。以下同じ。)は、その犬又は猫を引き取るべき場所を指定することができる。
35条3  第一項本文及び前項の規定は、都道府県等が所有者の判明しない犬又は猫の引取りをその拾得者その他の者から求められた場合に準用する。

動愛法7条
4  動物の所有者は、その所有する動物の飼養又は保管の目的等を達する上で支障を及ぼさない範囲で、できる限り、当該動物がその命を終えるまで適切に飼養すること(以下「終生飼養」という。)に努めなければならない。

動物の愛護及び管理に関する法律施行規則
(平成十八年一月二十日環境省令第一号)http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18F18001000001.html

第二十一条の二  法第三十五条第一項 ただし書の環境省令で定める場合は、次のいずれかに該当する場合とする。ただし、次のいずれかに該当する場合であっても、生活環境の保全上の支障を防止するために必要と認められる場合については、この限りでない。
一  犬猫等販売業者から引取りを求められた場合
二  引取りを繰り返し求められた場合
三  子犬又は子猫の引取りを求められた場合であって、当該引取りを求める者が都道府県等からの繁殖を制限するための措置に関する指示に従っていない場合
四  犬又は猫の老齢又は疾病を理由として引取りを求められた場合
五  引取りを求める犬又は猫の飼養が困難であるとは認められない理由により引取りを求められた場合
六  あらかじめ引取りを求める犬又は猫の譲渡先を見つけるための取組を行っていない場合
七  前各号に掲げるもののほか、法第七条第四項 の規定の趣旨に照らして引取りを求める相当の事由がないと認められる場合として都道府県等の条例、規則等に定める場合 

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上記は動愛法35条の引き取りの規定に関する部分である。

1. 動愛法の愛護目的と「殺す目的」の関係

 動愛法一条の目的は「動物の虐待及び遺棄の防止、動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持等の動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」という目的が前段に書かれており、『動物を(殺す)駆除目的で捕まえて行政に殺させる為に保健所等に持ち込むこと』は殺すことが目的なので、明らかに動物を愛し護るというこの目的、である「動物の健康および安全の保持」に反するばかりでなく「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」にも反しているために、正当な理由とは言えない。

2. 動愛法の管理目的と「殺す目的」との関係

 さらに、後段の「動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害並びに生活環境の保全上の支障を防止し、もつて人と動物の共生する社会の実現を図ることを目的とする。」にあたっては、このような前段に定められた動愛法の動物愛護という目的にそぐわない方法での「いわゆる管理方法」を認めているわけでは無いといえる。つまり、この時点でも殺すための持ち込みは正当な理由とは言えず、みだりに行う持ち込み行為であると言える。

3. 動愛法の基本原則と「殺す目的」との関係

 したがって、『動物を駆除目的で捕まえて行政に殺させる目的で持ち込むこと』は第二条の「動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。」という法的義務にも反することになり、正当な理由での持ち込みとはいえない。

4. 動愛法の目的と基本原則に則った35条の引き取り義務と「殺す目的」

 上記の事から、持ち込みが正当な理由ではない場合、例えば、盗んだ動物である場合等が正当な理由での持ち込みでないのと同じく、違法性のある理由での持ち込みは動物を適正に扱っているとは言えず、つまり、正当でない、みだりな持ち込みは、当然の事ながら持ち込み拒否の理由に十分になりえるだろう。さらに、これは、動愛法の目的の内容が「動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持」という動物愛護の気風を招来する事であるために、動物を殺すことを目的とした持ち込みは、動愛法で定められた動物愛護の否定であり動愛法の目的と真っ向から対立する。したがって、引き取らなければならないのは、動愛法一条の目的に沿う形の持ち込みであり、それ以外の目的、ましてや動愛法一条と真っ向から反する目的である、殺す目的での持ち込みの場合は動愛法上でも違法な目的であるために引き取ることができない。

 また、『動物を駆除目的で捕まえて行政に殺させる目的で持ち込むこと』というみだりな理由で引き取った場合で殺処分が行われた場合は、正当な理由での殺処分とならず、みだりに殺すことになり、行政自身が動愛法44条に抵触するということに留意する必要があると言えるだろう。

5. 結論

 結論をいうと、殺処分目的での持ち込みは動愛法一条に反するためにみだりな持ち込みであり、その持ち込みによる殺処分は二条の「何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない」という法的義務に反する為に、もし殺処分すれば、みだりに殺すことになり、みだりに殺す事を禁じている動愛法44条に抵触し違法殺処分と言える。もちろん法3条以下の解釈は、第1条の目的や第2条の基本原則に従って解釈していくことは言うまでもないことである。





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京都市動物との共生に向けたマナー等に関する条例とネグレクトによる動物虐待について





●ネグレクトの例と野良猫の虐待の関係

 ネグレクトの結果・・糞尿まみれで歯周病が進みほっぺたに穴があいている。体重は1.8kg。(現在2.7kg)しかし、結果は助かった。もう彼女はネグレクトに遭うこととはないだろう。こういった事実からも『ネグレクトに合う可能性』があるので殺処分が無くならないほうが良いというのは完全に誤りである。

 最近の事であるが、野良猫餓死条例に反対し、野良猫餓死条例が撤廃されると野良猫が付近住民により虐待されるという主張を見かけたが、条例を撤廃すると虐待が増えるから条例は必要だという理由は、条例の無いときに既に虐待はあるはずであり、その地域にもうすでに虐待があるなら、そういう事件はその地域で多発しているはずである。

 もし、条例が撤廃されたとしても、新たに動物虐待という暴力的犯罪者になる人が現在よりそれほど増えるだろうか?そして、仮に増えたとしても、餓死に追いやられるような野良猫の数よりその虐待で被害を受ける野良猫の数の方が多いのだろうか。TNRが行われている地域でそれほど虐待が増えたというデータを、少なくとも私は見たことがない。

 そして、この条例で、虐待数の減少があり得るのだろうか?仮にその虐待の数がこの条例で、仮に減ることになったとしても、その理由が餓死でのネコの減少であれば本末転倒である。ましてや条例の施行前ではそういったデータすら無い。この時点で、そういった主張をすること自体が無責任きわまりないということができるだろう。

 それも含めて考えると、条例の撤廃による暴力的虐待と条例による餌やりさんの減少、及びそれによる野良猫の移動、餓死、或いはごみ袋等の被害と比較した場合、この条例でのネグレクトでの餓死という虐待による被害の方が多いと思われる。


●暴力的虐待とネグレクト

 つまり、簡単に言うと暴力的虐待かネグレクトによる虐待かの比較とことである。そして、暴力的な野良猫虐待は増える事は、その見るからに残虐な行為のために、あまり無いと思われるが、条例の不作為によるネグレクトの虐待は個体管理義務や一人辺りの餌やり頭数が決められている以上、そちらの方が被害が大きいと想定されるため、野良猫餓死条例がない方が、より野良猫の被害が少ないと考えられる。

 そして、根本的に考える必要がある事は、暴力的虐待は動愛法や警察により防ぎようがあるが、この条例でのネグレクトでの虐待は防ぎようがないことに留意する必要がある。よって、野良猫餓死条例の撤廃による虐待増による野良餓死条例への反対は根拠がなく理由がない。

 また、確実に言えることは、この条例がこういった問題を引き起こしているということであり、この条例こそを批判すべきだということである。それをしないのであれは、根拠のない主観的理由での単なる動物愛護の足の引っ張り合いにすぎないだろう。


●条例によるネグレクトと不適切な餌やり
 
 それはさておき、京都のこの野良猫餓死条例の根本的欠陥の一つは、市民に動愛法上の愛護動物である野良猫にネグレクトを事実上強制していることである。それは、条例第9条 「市民等は,所有者等のない動物に対して給餌を行うときは,適切な方法により行うこととし,周辺の住民の生活環境に悪影響を及ぼすような給餌を行ってはならない」と定められており、さらには同条2での市長での基準で詳細に決められている。この基準で考えると、京都市野良猫排除条例では、市長の独断で、給餌場所が地域住民が許可した場所か自宅で付近住民の許可がある場所と大幅に制限され。この条例でいけば上記以外、つまり殆どの地域で、餌を片付け、避妊手術をして、糞尿の世話をしたとても、不適切な餌やりになってしまう。これは、市長、および議会が、TNRの有効性を過小評価していることに加え、動愛法やその目的など、まるで知らないか、一部の有権者や自分達の利益のために全く無視していると言うことだろう。

 このように、地域住民が認めた場所以外での餌やりを禁じた条例は、それ以外の場所で餌やりが事実上禁じられたといえるだろう。逆に言えば、地域住民が認めない地域での、人間に見捨てられた動愛法で保護されるべき愛護動物である野良猫に対する人間の不作為によるネグレクトによる虐待をこの条例は強制しているのではないだろうか。いくらか条例といえどもネグレクトを条例により事実上、強制するのは、動愛法は勿論のこと、道徳的にも誤りだと言える。


●環境省と虐待の定義

 環境省による虐待の定義には「動物虐待とは、動物を不必要に苦しめる行為のことをいい、正当な理由なく動物を殺したり傷つけたりする積極的な行為だけでなく、必要な世話を怠ったりケガや病気の治療をせずに放置したり、充分な餌や水を与えないなど、いわゆるネグレクトと呼ばれる行為も含まれます。」とある。これは野良猫にまで適用し、餌を与えなければならない義務まで規定したものではないが、餌を与える権利まで制限するものではなく、ネグレクトは虐待であるということをはっきりと定義している。


●動物との共生と条例

動物と人間の関係を考えてみると、現代ではまだ、一方的に動物が人間に搾取され、悲惨な扱いを受けているということが言える。畜産、動物実験、毛皮、保健所での殺処分など、ほぼ全部が搾取されたり、生きたまま皮を剥かれたり、生きたまま解剖されたりしており、そのほとんどが、正確に言えば必然性のないものであるということができる。

 そして、共生といういかにも人道的な言葉であるが、Wikiによれば、共生は、相利共生(そうり - ) … 双方の生物種がこの関係で利益を得る場合、片利共生(へんり - ) … 片方のみが利益を得る場合、片害共生(へんがい - ) … 片方のみが害を被る場合、寄生(きせい) … 片方のみが利益を得、相手方が害を被る場合、に分類されている。この共生というのは上記のように、人間の一方的な片害共生や寄生も含まれることになる。これを「共生」というさも人道的言葉でごまかすように知識のない市民を騙すのは正に、偽善でしか無い。この条例案を考えると、共生の意味は人間の寄生か片利共生でしかない。それを偽善的に一言で共生としたことに悪意を感じざるを得ない。そうでないとすれば、まさしく杜撰な条例だと言わざるをえないだろう。



●条例によるネグレクトの強制

 以上のことから、京都市のこの条例は、地域住民の許可のない地域では、困窮した動物に餌を与えて助けようとする人道的な権利が条例により、剥奪されているということであり、逆に言えば、その地域においては環境省の虐待の基準に合致するネグレクトという虐待を共生ならぬ、強制していると言うことである。

 これに対して、環境省の基準は飼い猫を想定したものであるとの反論が即座に提起されるだろうが、飼い猫と野良猫との生物学的な違いはなく、両者ともよほど餌の豊富な地域でない限りは、人間が餌を与えない限りは生きていく事は出来ないだろう。そういった意味でも野良猫は愛護動物として認定されていると思われる。したがって、生物学的に違いもなく、同じ愛護動物にこのような虐待の定義が当てはまらないという主張は誤りである。

 このような、動愛法の目的や罰則規定のある、そして環境省の虐待の基準に抵触するような条例を作ることは、野良猫のネグレクトでの虐待について、よほど想像力かないか、そうでなければ、故意にネグレクトによる餓死での排除を目指しているのか、道徳心や人道的配慮のできない人間かの内のどれかであろう。これが政治手動で行われたのであれば、政治家としての資質の問題だろう。


●人間での問題は

 こういった意味でも、かなり杜撰な条例と言えるが、さらには人間にとっても危険な条例であると言える。

 それは、京都市野良猫排除条例では、餌やりをするときには、遺棄があっても告発さえせず、放置することで野良猫を増やす事に貢献した、そして赤の他人である地域住民に自分の個人情報を晒さなければならず、悪意ある住民に、いやがらせや襲われる可能性もあり、非常に危険な条例だといえるだろう。



●条文と問題点

 以下、条例の具体的な問題点を挙げていきたいと思う。

 「京都市動物との共生に向けたマナー等に関する条例施行規則等について」によると以下のことが決められている。

===========================
動物との共生に向けたマナー等に関する条例施行規則,京都
市動物との共生に向けたマナー等に関する条例第9条第2項の
規定に基づく適切な給餌の方法に関し市民等が遵守すべき基
準及び京都市野良猫への給餌に係る届出掲示制度実施要綱
を定めました。
===========================

 条例9条2には「京都市野良猫への給餌に係る届出掲示制度実施要綱」を作れなどは書かれておらず、条例を無視して勝手に付け足したものだと思われる。このことからも後出しジャンケンと同じような、だまし討であることが見て取れる。以下は条例の9条である。

===========================
第9条 市民等は、所有者等のない動物に対して給餌を行う
ときは,適切な方法により行うこととし,周辺の住民の生活環
境に悪影響を及ぼすような給餌を行ってはならない。

2市長は,前項の動物に対する給餌について,必要があると
認めるときは,適切な給餌の方法に関し市民等が遵守すべ
き基準を定めることができる。
===========================

 要約すると、この条例では、市長の独断で、給餌場所が地域住民が許可した場所か自宅で付近住民の許可がある場所と限定されたので、大幅に制限され他と言えるだろう。この条例でいけば上記以外、つまり殆どの地域で、餌を片付け、避妊手術をして、糞尿の世話をしても、不適切な餌やりにされてしまうだろう。以下は条例9条2で定められた基準の抜粋である。

===========================
京都市動物との共生に向けたマナー等に関する条例第9条
第2項の規定に基づく適切な給餌の方法に関し市民等が遵
守すべき基準(平成27年4月1日京都市告示第32号)以下告
示32号 
1.適用範囲 この基準は,条例第2条第4号に規定する野良
猫(以下「猫」という。)に対し,継続的に又は反復して給餌
(給水を含む。以下同じ。)を行うものに適用する。ただし,こ
の基準に定める方法によらない給餌(以下「基準外の給餌
方法」という。)であっても,基準外の給餌方法によることに
ついて,給餌を行う場所(以下「給餌場所」という。)の周辺の
住民(以下「周辺住民」という。)の理解の下に行われている
と認められるもの又は基準外の給餌方法によることが周辺
住民の生活環境に支障を生じさせることを防止するうえで合
理的であり若しくは支障を生じさせるおそれがないと認められ
るものにあっては,この限りでない。
===========================

 周辺住民の理解と言うのは周辺住民が許可しているという意味であり、基準外の給餌方法によることというのはこの条例に書かれている内容以外の方法であるということだが、「条例第9条 市民等は、所有者等のない動物に対して給餌を行うときは,適切な方法により行うこととし,周辺の住民の生活環境に悪影響を及ぼすような給餌を行ってはならない」とあり、当然、9条に基づいて糞尿の処理まで想定して規定しているので、糞尿が少しでもあれば周辺住民の生活環境に支障を生じさせる事になる。つまりいつでも、どこでも根拠のないイチャモンを付けれるということである。

===========================
告示32号 2 周辺住民の生活環境への配慮
 ⑴ 給餌を行う者(以下「給餌者」という。)は,給餌を開始
しようとするときは,別に定める場合を除き,給餌場所の存
する場所の自治会,町内会その他の地域住民の組織する
団体又は周辺住民(以下「周辺住民等」という。)に給餌者
又は責任者及びその連絡先を示すこと。
===========================

 これは、上記でも指摘したが、個人情報を赤の他人に晒せということである。最近の傾向として、個人情報を保護する傾向がある中で、このような条例はあまりないのではないだろうか? 安易に作ったとしか思得ない条文である。

 これでは、悪質な餌やりさんどころか、善良な餌やりさんまで排除することになるのでは無いだろうか。餌やりさんには若い女性も多く、身の安全を考慮して、条例に従わない餌やりさんが悪質とレッテルを貼られ、このひどい内容の条例により(自主的に)排除されるのではないだろうか。これでは、多くの善良な餌やりさんがいなくなるということになりかねないだろう。


●条例の本当の目的は

 上記を含めて、野良猫問題の根本的な問題から検討しても、この条例で取り決められた規則から考えても悪質な餌やりを政治的に利用し、厳しい条件や常識を通り超えた反道徳的かつ違法性のある条件を含めた、全ての餌やり排除での野良猫の餓死・排除の条例であると言えるだろう。

 一番大きな問題は、条例の根本部分である無責任な餌やりの定義を決めずに条例を通した事である。この条例を通したあとで市長が主観と独断で規則を決めることにしており、これは、後だしじゃんけんみたいなものであり、条例9条2により、条例が決まったあとで条例の性質を全く変えてしまうことができる非常に姑息で悪質なやり方である。


●過去からの経緯と条例反対の普遍妥当性

 この事からも、過去の経緯(餌をやるなら連れて帰って飼え等の傲慢な姿勢)からも、この条例が野良猫のためになることはほとんど無いだろう。もし野良猫のためになるのであれば、そのような規定が含まれているはずだが、そのような規定は全く見受けられない。したがって、この条例に無責任に、賛成できる理由が全く無いといえる。長い目で見たとしても、市長の独断と偏見で条例の性質が変更できる以上、今の市長が落選でもしない限り、野良猫のためにはならず、TNRによる野良猫の総量の減少でもなく、野良猫を餓死させることで、野良猫を排除しようとする条例だといえるだろう。

 このように動物の苦痛やその扱いに配慮しないという観点からは動物を愛し護るという動物愛護からはもちろんのこと、動物福祉からも、そしてアニマルライツからも反対できる条例だといえる。

 そして、こういった、苦痛に関して反道徳的な条例は苦痛を与えることを良いこととしない一般市民からも反対できるものである条例だといえるだろう。


●条例と動物実験の関係

 また、京都市動物との共生に向けたマナー等に関する条例施行規則では、多数の犬等の飼養等に係る届出を要しない者に、「⑹ 試験研究用又は生物学的製剤の製造の用に供する為に犬又は猫を飼養し,又は保管している者」があり、動物実験で金儲けのために犬猫を生きたまま残酷に解剖して殺すものには甘く、TNRで猫の総量を減らそうとする人には冷たい反道徳的条例と言えるだろう。これだけではなく上記の事も含めて、特に、非差別、一貫性、非苦痛という、誰もが認めるであろう普遍的性質のある規範に基づくアニマルライツの観点から言っても、反対すべき条例だと言えるだろう。


●結論

 このように、動愛法から見ても違法性のある、道徳的にも誤りであり、個人情報にも配慮さえしない憲法にも抵触するような規則を持った、それが自由に市長の独断と偏見で条例の性質を変更できる杜撰な条例は直ぐにでも廃止すべきであろう。





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日本生理学会の動物実験正当化の主張への反論

日本生理学会 動物実験について http://physiology.jp/guidance/4804/

 上記のように動物実験を正当化しようとする主張がある。読んでみるとわざとらしいぐらい、正当化の努力の跡が見られる。これは対一般社会への主張ではなく、自分たちの動物を殺すことへの罪悪感を打ち消すためのものではないかと思えるような主張が多いと思える。どんな人間でも生きたまま解剖して殺すなどという残虐な行為は悪いことだと自覚できるだろう。そして直観的にも、その罪悪感は消えるものではないだろう。そしてその罪悪感自体をなくすには、その悪を感じる心をなくしてしまえば罪悪感もなくなるということに繋がる。そのためには、誰もが肯定すると思える理由をつけて、正当化しておく必要がある。それをまとめたような主張がこの学会の動物実験への主張で、殆どがわざとらしいものであった。これがまた、あまりにも酷いので反論を加える事にした。なお、彼らの主張が動物実験関係者の中でも特段に悪いということではなく、動物実験関係者のよくある代表的な主張がまとまってあるので批判の対象にしたということを申し添えておく。


●自分たちの利益のためなら動物を自由に扱っても良い

言い分1.動物の尊い犠牲を通じて行われる動物実験は、生命現象の理解に大きな役割を果たし、 医学・医療に応用され、人類の健康と福祉にはかり知れない貢献をしています。 動物実験は開発された医療・医薬を人間に適用する前の欠くことのできないステップでもあり、今日、 その必要性と重要性はますます増大しています。 我々研究者が動物の命を大切に思う気持ちは多くの人々と同様で、実験に際しては動物の福祉と人道的取り扱いを 常に心がけています。 今後とも我々は、動物の使用に対して社会の皆様のご理解を得つつ、医科学研究の発展を通じて、 人類の健康と福祉の向上を目指す所存です。


☆種差別と金儲け

反論1. 「動物の尊い犠牲」とまるで他人事のような主張であるが、動物には当然の事ながら犠牲に成る意思もなく、それを無理矢理、生きたまま解剖するなどと残虐に殺しており、これは非常に傲慢な主張だと言わざるを得ない。もし殺人犯が自分の利益に成るからと殺しておいて「尊い犠牲」といえばどうなるだろうか。こういったことを平気で主張できるのは、動物実験が、人種差別や女性差別と同様の属性を理由にした差別である種差別を前提に成立しているからである。

この人間でない動物への種差別は、人間でない動物を人間でない人間に置き換えることで起きる人種差別に簡単に結び付き、過去にも実際に人権を無視した人体実験は行われてきている。こういった差別に基づく前提に依拠した動物実験の構造がある限り、今後もこう言った人間でも問題が起こり得ることは容易に想像できるだろう。

さらに問題なのは、人類の健康と福祉と言うように、自分達の利益のための動物実験を、さも社会的要請が有ったかのように勝手に社会を巻き込んでいることである。これは上記と同じような傲慢な主張であり、まさに詭弁の押し売りでしかない。

また、薬品の承認確率は約25000分の1であり、その全てで動物実験が行われてはいないだろうが、殆どの動物がその薬品の開発に全く役に立たずに生きたまま解剖されて残酷に殺されているのは事実である。そもそも、動物実験という悪行をせずに薬を開発すべきであるのに、製薬での営利活動のために手段を選ばず動物を生きたまま解剖するような虐殺をしてきたことは過去からの動物利用と言う慣習があったにせよ道徳的に異常なことである。

 一般的に企業・法人は営利が目的である。製薬会社とて一般の企業・法人と変わらず営利目的である。つまり、金儲けが目的である事は紛れの無い事実である。もし、患者のためであるなら、お金を儲けようとしない非営利法人やボランティアで行われているはずである。この事からも、事実上、他の企業と同じく利益追求のため薬を開発し製薬し販売している営利団体でしかない。

 また、動物実験の目的が人類の健康と福祉の向上を目指すという主張は上記でも述べたが論理のすり替えで全くのでたらめである。もし彼らが利他主義的に本当にそうするのであれば無料奉仕や薬の無料配布が大量になされているはずである。もし、そう言ったことが頻繁に行われているのであれば、目的が「人類の健康と福祉の向上を目指す」と言うことは言えるかもしれないが、現実はそうではない。そもそも、動物を殺す事自体で利他主義とはいえず、この時点で彼らのロジックは破綻している。




☆動物実験は正当化できるのか?

 動物実験の普遍化可能性については以下のようになるだろう。

金儲けの為に犬を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に女性を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に黒人を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に子供を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に猫を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為にうさぎを残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。

 上記は良く有る、簡単な普遍化可能性テストだが、おそらく、差別主義者や苦痛に配慮できない自分勝手な人間以外は、全部間違っていると指摘すると思われる。つまり、これらは普遍化不可能だと言うことである。そのまま言っても動物実験関係者の論理が普遍化不可能だと言うことである。

 また、人間のほうが実験をするにあたって同種であるために圧倒的に効率が良いにもかかわらず、人体実験をせずに動物実験をすることは、人間と動物が同様に苦痛を感じる以上、動物だけに異常な負担をかけることは、上記に書いたような差別でしか無い。動物実験関係者が差別主義者ではないとするなら、動物実験は明らかに矛盾してしまう。

 そして、明らかに異常と思えるのは、「動物の福祉と人道的取り扱いを 常に心がけています。 」ということだが人道的に動物を扱うなら生きたまま解剖など出来ないはずである。生きたまま解剖することがどのような理由で人道的と言えるのだろうか?彼らにとっては生きたまま解剖することが人道的なのであろうか?こういった「人道的」という、さも自分達が人格者で有るような言葉の使用で誤魔化すように論理をすり替えることは悪質であると言わざるをえない。いったい何匹殺して、何匹助けたというのだろうか?仕事では仕方なく殺すが、人道的に動物を扱うという思いから普段の生活では倫理的ベジタリアンだという話は全く聞こえてこない。


●動物実験は必須なのか?/利害関係者からの脅迫

言い分2.はじめに 私たちの生存を守る医学の発達は動物実験によって成り立ってきました。 ヒトの健康と福祉を追求する医科学研究にとって動物実験は必須の手段です。 私たち人間が現在のように存在し生活できるのは、今までに行われてきた動物実験のおかげといっても過言ではありません。 一方で、動物の命を犠牲にする動物実験に反対する立場もあります。

 実験に利用される動物がかわいそうという思いは人間として当然であり、 実際その感情は私たち研究者も共有します。しかしそういう感情を大事にするとともに、 自分たちが受ける医療や服用する薬がどのように動物実験に依存しているか、もし動物実験がなかったらどうだったか、 もし必要な実験が制約を受けることになったら今後どんな事態が予想されるか、といったことを理性的に判断することも大切です。

 医科学研究における動物実験は国民が真剣に考える必要のある重要な問題です。 日本生理学会では会員のほとんどが動物実験に携わっています。 そこで私ども日本生理学会が動物実験をどう考えているか、見解を示しご理解を求めます。


☆差別と置き換えテスト

反論2.   見事なほど論理のすり替えや、偽善的な言葉で誤魔化そうとしているので、この論理がいかに差別的な論理であるかをわかりやすくするために、被差別者を置き換えて、その論理自体が正しくて普遍性を持つものかどうか置き換え実験をしてみた。被差別者である動物での「動物実験」を同じ被差別者である「黒人の人体実験」と置き換えてみた。

 『私たちの生存を守る医学の発達は黒人の人体実験によって成り立ってきました。 ヒトの健康と福祉を追求する医科学研究にとって黒人の人体実験は必須の手段です。 私たち人間が現在のように存在し生活できるのは、今までに行われてきた黒人の人体実験のおかげといっても過言ではありません。 一方で、黒人の命を犠牲にする黒人の人体実験に反対する立場もあります。

 実験に利用される黒人がかわいそうという思いは人間として当然であり、 実際その感情は私たち研究者も共有します。しかしそういう感情を大事にするとともに、 自分たちが受ける医療や服用する薬がどのように黒人の人体実験に依存しているか、もし黒人の人体実験がなかったらどうだったか、 もし必要な実験が制約を受けることになったら今後どんな事態が予想されるか、といったことを理性的に判断することも大切です。

 医科学研究における黒人の人体実験は国民が真剣に考える必要のある重要な問題です。 日本生理学会では会員のほとんどが黒人の人体実験に携わっています。 そこで私ども日本生理学会が黒人の人体実験をどう考えているか、見解を示しご理解を求めます。』 以上普遍化可能性による置き換えテスト。

 正常な成人であれば、言葉を入れ替えただけで、彼らの明らかな差別的論理がわかると思う。この差別の論理を平気で使い、その異常性がわからないで平気でこういう主張を書ける人たちの集まりが日本生理学会なのだろうか。

 この論理は、金儲けのために不正な動物実験をしてきたが、それが人間の役に立っているので、その不正を認めろという、中国で言えば昔よくあった、「愛国無罪」と同じ主張をしているだけである。お国のために行った犯罪は無罪になって良いものなのだろうか? 為になることはあったとしても犯罪は犯罪であり、否定されるべきものである。ましてや動物実験の場合は金儲けの副産物として人間に利益が生じただけであり、愛国無罪よりまだたちが悪いといえるだろう。

 したがって、当然のことながら動物実験も否定されるべきである。また、このように書くと動物実験は犯罪ではないという単純な反応が予想できるが、ここで議論しているのは法的な問題での議論ではなく道徳的問題であり、この場合、「犯罪=悪」という道徳的な議論であることに留意する必要がある。


☆正当な理由はあるのか

 また、こう言った事実を理性的に判断するのであれば、過去には動物が苦痛を感じるとも証明されておらず、動物は人間が利用して良いとも思われていたし、事実、そのような慣習も存在していた。そして、動物は物のように扱われてきたが、現在では、進化生物学などでは動物は人間と連続した存在であると言われており、また人間同様に苦痛を感じる存在であることが分かっており、人間が苦痛を良いこととしない以上、人間に苦痛を与えてはいけないのであれば、動物にも苦痛を与えてはいけないし、また、動物実験が無くなったにせよ、それが理由で今までより我々の生活がより悪くなるわけでもない。つまり、動物実験は人間が持つ共通認識である苦痛への配慮からも正当化できる理由がない。


●肉食と動物実験

言い分3  1. 動物実験の目的・必要性   人類誕生以来、病気との戦いは絶え間なく続いています。医学研究はその勝利を偶然や奇跡 ではなく、科学的根拠に基づき実現することを目標としています。そのためには、まず人間の身体、臓器や組織、あるいは細胞が、どのように働いているかを研究する必要があります。同時に、病気の原因とメカニズムの解明が求められます。また、薬や医療技術が開発されると、その薬が、あるいは技術が、いかに人体 に作用するか、副作用はないか等を細心の注意をもって調べる必要があります。これらの研究の多くは生体を用いることを不可欠とし、人間を用いた研究や試験 も行われます。しかし、人間を用いる研究には、当然、厳しい限界があります。やむを得ない策として、人間と同じ生命原理が働いて生きる動物に犠牲を求めます。これは、我々が食物として動物を用いるのと同じ道理であり、動物を犠牲にして生きる人間の生の一面です。当然、我々研究者は、生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱います。また、開発された医療や薬が動物自身の健康と福祉にも多大の貢献していることを強調しておきます。


☆言葉の置き換え実験と肉食

反論3    これも同じく、この論理がいかに差別的な論理であるかをわかりやすくするために、言葉の入れ替えテストを行ってみた。いかに目的のために手段を選んでいないかがよく分かるだろう。(動物→黒人)

 『前略、これらの研究の多くは生体を用いることを不可欠とし、人間を用いた研究や試験 も行われます。しかし、人間を用いる研究には、当然、厳しい限界があります。やむを得ない策として、人間と同じ生命原理が働いて生きる黒人に犠牲を求めます。これは、我々が食物として黒人を用いるのと同じ道理であり、黒人を犠牲にして生きる人間の生の一面です。当然、我々研究者は、生命に対する畏敬の念を もとに、用いる黒人を可能な限り人道的に取り扱います。また、開発された医療や薬が黒人自身の健康と福祉にも多大の貢献していることを強調しておきます。』


☆肉食との違い

 そもそも、彼らの言う理由は動物を食べているのと同じだから、残酷に生きたまま解剖して良いとするもので、この理由は彼らの主張の中でも矛盾しているものである。食べるときに動物を生きたまま解剖して解体するのだろうか?もしそういう人がいれば異常者とされるだろう。そのような一部の異常者の論理を人間の生の一面とするのは迷惑な詭弁でしか無いだろうし、明らかに程度の差を無視した暴論でしか無いだろう。しかも、営利活動でしか無い製薬を人類のためと偽善的にごまかしている。もっと言えば、人間は雑食性のため動物を殺さなくても生きていけるだろう。以下は雑食と菜食を比較検討したアメリカ栄養士会の見解である。長いので要約の部分を示しておく。


☆肉食は必須か?

 世界の栄養の専門家達はどのように結論しているのか見てみると、世界最大の栄養学の専門家集団であるアメリカ栄養士会の見解が出されている。このアメリカ栄養士会の見解を要約すると、204もの論文での菜食と雑食の健康への影響を比較検討し、菜食のリスクは栄養強化食やサプリメント、又は適切な食材を使うことによって回避できるが、雑食は健康への根本的なリスクをもつ肉食があるために、肉食の持つ解消できない様々なリスク、あるいは菜食と比べた場合に大きくなるリスクがあるために、菜食は雑食に比べて健康的であるという結論であり、ADAは健康のために菜食を推奨している。

Position of the American Dietetic Association:
Vegetarian Diets

ABSTRACT 要約
It is the position of the American Dietetic Association that appropriately planned vegetarian diets, including total vegetarian or vegan diets, are healthful, nutritionally adequate, and may provide health benefits in the prevention and treatment of certain diseases. Well-planned vegetarian diets are appropriate for individuals during all stages of the life cycle, including pregnancy, lactation, infancy, childhood, and adolescence, and for athletes.

A vegetarian diet is defined as one that does not include meat (including fowl) or seafood, or products containing those foods. This article reviews the current data related to key nutrients for vegetarians including protein, n-3 fatty acids, iron, zinc, iodine, calcium, and vitamins D and B-12. A vegetarian diet can meet current recommendations for all of these nutrients. In some cases, supplements or fortified foods can provide useful amounts of important nutrients. An evidence-based review showed that vegetarian diets can be nutritionally adequate in pregnancy and result in positive maternal and infant health outcomes.

The results of an evidence-based review showed that a vegetarian diet is associated with a lower risk of death from ischemic heart disease. Vegetarians also appear to have lower low-density lipoprotein cholesterol levels, lower blood pressure, and lower rates of hypertension and type 2 diabetes than nonvegetarians. Furthermore, vegetarians tend to have a lower body mass index and lower overall cancer rates. Features of a vegetarian diet that may reduce risk of chronic disease include lower intakes of saturated fat and cholesterol and higher intakes of fruits, vegetables, whole grains, nuts, soy products, fiber, and phytochemicals.

The variability of dietary practices among vegetarians makes individual assessment of dietary adequacy essential. In addition to assessing dietary adequacy, food and nutrition professionals can also play key roles in educating vegetarians about sources of specific nutrients, food purchase and preparation, and dietary modifications to meet their needs.

J Am Diet Assoc. 2009;109:
1266-1282.

 適切に計画された全てのベジタリアンやビーガン食を含む、菜食は、健康的であり、栄養的に適切であり、そして特定の病気の治療と予防において健康に寄与することはADAの見解である。良く考えられた菜食は、妊娠、乳児、幼児、子供、青年を含む個人の生活習慣の全ての段階で適切である。

 菜食は家禽を含む肉や魚類、またはこれらの食べ物を含んで生産されたものを含まないものであると定義されている。この論文は、プロテイン、n-3、脂肪酸、鉄、亜鉛、ヨウ素、カルシウム、ビタミンDとB-12を含むベジタリアンの為の鍵となる栄養素に関連する現在のデータを再検討したものである。菜食は現在においてこれらの栄養素の全てに推薦できる条件を満たす。一部の例では、サプリメントや栄養強化食品が重要な栄養素の有用な量を与える事が出来る。証拠に基づく再検討では、菜食が妊娠や、はっきりした妊娠の結果、幼児の健康の成果において栄養的に適切であることが見られる。

 証拠に基づく再検討の結果は、菜食が虚血性の心臓病からの死のリスクをより低くすることに結びつけられている。ベジタリアンは又、ノンベジタリアンより、低比重リポタンパクコレステロールのレベルをより低くし、血圧を下げ、タイプ2の糖尿病と高血圧の数値を下げることも明らかになっている。その上、ベジタリアンは肥満指数をさげ、全てのガンの罹患率を下げる傾向が有る。菜食の特徴は飽和脂肪とコレステロールの摂取量を減らし、フルーツや野菜、穀物、ナッツ、大豆製品、繊維、や植物性化学物質の摂取量を増やし慢性疾患のリスクを減らす。

 このベジタリアンに共通する食習慣のばらつきは、食事の妥当性の本質的な要素の個人的な評価である。加えて、食事の妥当性の本質的な要素の評価は、食べ物と栄養の専門家が 特定の栄養素の材料、そして食べ物の購入、そして、彼らの必要を満たす食事の改良についてベジタリアンを教育する役割を担うことが出来る。

 上記のように動物を食べなくとも、より健康的に人間は生きていけるだろう。なぜ動物を食べるかといえば、過去からの慣習や、味覚のためということになるだろう。そしてこのことは「やむを得ず』とはならないことを意味しているばかりでなく、人間と同様に苦しむことができる動物を、味覚や過去からの慣習という道徳的に意味のないことを利己的に優先し、日本人の場合で食事量のたった7%(農水省データより)でしかない肉食を他の植物性食品に置き換えるという努力や自律さえ出来ないということを意味している。もし彼らが自らの言うとおり「生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱っている」のであれば、彼らの食事もベジタリアンであろうし、その発想と生きたまま切り刻む発想は一致しないので、このような文章はそこには存在しないはずである。これは、彼らが「生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱っていない」ということである。そして、可能な限り動物を人道的に扱うのであれば、たった7%の植物性食品への置き換えなど既に行っているはずであり、これは、彼らの言い分とは明らかに矛盾している。


☆動物のために薬は開発されているのか?

 そして、開発された薬品が動物の治療にも役立っているとのことであるが、動物専用に開発された薬品は殆ど無いだろう。あったとしても「利益の追求の可能性のある」ペット用等の一部の例外をのぞいて、人間用に開発された商品が単に動物に流用されたということに過ぎないだろう。この論理も、営利目的を患者の救済という利他的行動とすり替えるのと同じく、人間への商品開発を動物の商品開発のように利他的行動とすり替えるという、論理のすり替えにしか過ぎない。こういった論理のすり替えでの偽善的な発想は動物実験関係者によく見られるパターンである。こういった怪しげな論理でごまかさなければ、いわゆる正当化出来たように見えないのが動物実験の論理だということになるだろう。この反論に利益がなければ薬を作らないというのが考えられるが、それだと、金儲けのために動物実験をしていることを認めることになり、彼らの論理は破綻するだろう。


●人間は動物を利用しなければ生きていけない?/薬を選ぶか死を選ぶかの二者択一は正しい?

言い分4.    1. 動物実験反対運動に対する見解    動物実験に利用される動物はかわいそうという一般の人々の素朴な心情は、十分に理解でき ますし研究者も同じ気持ちです。愛くるしい動物を実験に使うとき、あるいは何ヶ月も実験につきあってくれた動物を殺さなければならないときに、研究者の心 も痛みます。その意味で、動物実験に反対する人々の心情は理解できますし、皆さんこころの優しい人々であると信じます。一方、人間の生は他の動物の犠牲の 上に成り立っているという側面も直視しなければなりません。パックされた肉は手軽に購入できますが、裏には屠殺という現実があるように、我々が普段に享受 する医療の裏には動物実験が存在するのです。

 動物実験に反対する多くの人々は、必要な医療は受けたいし肉も食べたいが、実験に使用される動物がかわいそうだから実験は止めて欲しい、という考えであると思います。しかし、その願いは両立しません。残念ながら、規則正しい生活をしても病気 になる場合もありますし、未だに克服できずにいる難病も数多く残っています。結核のように、一時は下火になったと思われた病気も再び広がり、問題となって います。SARSやエイズなど新しい病気も絶えません。病気になったら自然のままに死ぬという訳にはいかず、少しでも良い治療法を開発したい、して欲しい という願望は当然のものです。やはり、動物実験を含む科学的手段を尽くして病気を解明し、治療法を開発すべきだと考えます。動物の使用に際して、研究者が 動物の福祉を重んじ、優しく人間的に扱うべきことは言うまでもありません。当学会においても研究倫理委員会を中心に動物福祉の充実に努めていますが、実際 に研究者がそう考え、行動していることは一般の方々に知っていただきたいと思います。


☆殺される動物は本当にかわいそうに思っているのか?

反論4.   殺される動物が可哀想であると思うのであれば、殺す必要はないだろうし倫理的不服従という手段も考えられるだろう。結局そういった行動に出ないのは、金儲けのためか、論文のためという利己的な動機が動物を残虐に扱い結果的に殺すことより重要視されているのに他ならない。これは、我々、一般人が残虐な行為を否定し、反対するような動機での生命尊重や共感能力を通じての同情や慈悲とは全く違う異質のものであるか、ものすごく大きな程度の差があるということであり、それはもはや質の差と言っても良いだろう。そして、それは利己的な行為と利他的な行為を同一視するような、恐らく恣意的な論理の飛躍に基づくものであろう。

また動物実験を行う研究者や関係者が動物が可哀想であるとか動物の犠牲を減らしたくないのであれば、動物実験は仕事であるので仕方がないと考えたとしても、動物の犠牲を減らすような行動をしているのかといえば、それも疑問である。もし、そうであるなら自分たちが殺した動物の犠牲を、社会生活において、より増やさないためにも普段の生活において動物を殺さない、あるいは傷つけないような生活をするはずである。しかし、動物を護る様な行動、つまり倫理的ベジタリアンな動物実験関係者や動物保護活動をしているような動物実験関係者にはお目にかかったことはないし、聞いたこともない。ここでも、動物実験関係者も動物をかわいそうにと思うという偽善的な言い逃れが見て取れる。


☆動物を利用しない選択肢はないのか

 また、上記にも書いたが、人間は他の生物を利用しなければ生きていけないのは事実であるが、パックにされた肉が必要ないのと同じで、動物を利用しなくとも生きていける。そして、我々は道徳的に様々な選択肢がある。他の生物を利用しなければ生きていけないとしても、同じ利用しなければならないのであれば、人間が苦痛を善しとしない以上、苦痛を感じることの出来ない生物を利用すべきである。わざわざ人間が普遍的に持つであろう苦痛の回避、つまり苦痛の否定を無視してまで、人間同様に苦痛を感じることのできる動物を利用する必然性は無いはずである。したがって、このような一貫性を無視した動物利用の肯定は自己破綻しており、同じく動物実験の論理も破綻している。


☆我々は製薬を否定しているのか?

 そして、数多くある難病や新しい病気に対して薬を作るのは大いに結構なことだとは思うが、感情的にも道徳的にも不正な動物実験をしないで作るべきである。そもそも、製薬者に人類にために新薬を開発しなければならない義務はない。何故、そこまで薬を作りたがるのであろうか。患者や人類のためという利他的な行為を目ざすのであれば、動物愛護団体やボランティア団体のように無料奉仕や勤労奉仕をするはずである。高給をもらっては薬の価格にストレートに影響するため、とても高給はもらえないだろう。彼らは無給でも動物実験をして患者や人類のために薬を作り続けるという利他的行動をするのであろうか?動物を生きたまま解剖するのだろうか? もしそうであれば、趣味嗜好で動物を切り刻んで殺すことになり異常者扱いされるだろうし、結局、営利が目的としか言いようがない。

「金儲けのために」と言うと、すぐに誤解する人が出てくるので、誤解の無いように言っておくが、私は営利活動が悪いからやめろと言っているのではない。営利という目的のために動物を残虐に殺すという、手段を選ばないことが問題だと言っているのであり、その悪行を隠すために製薬の目的が人類のためや患者のためという論理のすり替えをする姑息な態度が良くないと行っているだけである。誤解のないようにもう一つ付け加えれば、仮に人間に役立つ犠牲を伴う動物実験があったとしても、それに賛成している訳ではないという事である。なぜなら、人間に同意なく人体実験してはいけないのであれば、同意をとれない動物にも同じ理由でしてはいけないからだ。


☆動物実験に反対するならその責任を追うべきか

 また、動物実験がなくなったとして、あるいは開発が遅れたとして、また薬の開発が遅れたために患者に影響が出たとして、それは動物樹実験反対を主張する人が責任を追うべきなのだろうか。そして、それは非難されうるのだろうか? 例えば研究者の個人的な都合で薬の開発が出来なくなったり、あるいは遅れたとして、大勢の患者が死んだところで、研究者が罰せられることはないだろう。もし罰せられるのであれば休みなく奴隷のように働かなければならないだろう。同じく動物実験をやめて薬の開発ができなくなったり、開発が遅れたとしても誰も責任は問われることはないだろう。薬ができるのか出来ないのか、その薬が有効なのかそうでないのか、未来のことは誰もどうなるか予見できないからであり、病気になったのは動物実験を叫ぶものや動物実験関係者の責任ではないと考えられるからだ。薬の開発と動物実験の中止の関係はこの程度のことでしか無いと思われる。


☆動物実験をなくせない責任

 そして、動物実験がなくなって薬の開発の速度が著しく遅れたとしても、それは不正な動物実験の廃止を求めた消費者の責任ではない。責任があるとすれば、動物実験という企業や研究者にとって不正な甘い汁の中毒から長年に渡り抜け出せなかった両者への責任は重大だと思われる。つまり、以前から叫ばれていた、目的のため手段を選ばないという不正な動物実験の批判に聞く耳を持たず、代替法の研究を疎かにして殆ど何もしてこなかった責任は製薬企業や研究者にあるといえるからだ。その事を棚にあげて、動物実験がなくては薬ができないと言い訳するのは、自分で原因を作っておいて、つまり、金儲けのためにわざと代替法を作らずその科学的な進歩を遅らせておいて、出来ないと言うことは、科学の否定であり、科学者として失格である。

 消費者や患者は、動物実験の何たるかを知る前に、動物実験のこういった不都合な真実を知る必要があるだろう。



☆薬の承認確率と動物実験

 薬の承認確率は約25000分の1ぐらいである。その内の何割かで動物実験が行われ、その動物実験を通過した薬品で人間を使った臨床実験が行われ、それに合格すれば薬として、結局、約25000分の1の確率で承認される事になるわけである。これは、結果的に、殆どの動物実験が薬として承認されない化合物のために行われていることを意味している。そして、こういった事実があるにも関わらず、動物実験が人間の役に立っているという主張は、わずかな事例をすべての事のようにいう詭弁であろう。正確に言えば薬の承認確率から考えて、1000の化合物で動物実験が行われれば999の実験に使われる動物が、500の動物実験であれば499の実験に使われた動物が合格した薬品の認可とは無関係に殺されており、つまり、ほんのごく僅かな動物実験だけがその薬の開発に役立っており、殆どの動物実験がその化合物の製品化に役立っていないというのが妥当だろう。(これは、動物実験が行われた化合物の数であり、動物実験に利用された動物の数でないことに留意する必要がある) これに加えて動物実験自体が持つ残虐性に関する道徳的不正や動物実験関係者のこう言った詭弁を使った不正な主張が薬の信頼性にも影響を与えているのでは無いだろうか。非差別、非苦痛、一貫性の肯定のような道徳的規範を否定し、残虐性を函養させ、詭弁を使った論理を飛躍させるという倫理的感覚の欠如が、データの改竄や、最近ニュースでも話題になっているような、でっち上げとされる研究結果をもたらしているのではないかと言っても過言ではないだろう。


☆動物実験と畜産は同様か

 そして、この学会では畜産に関する動物利用を引き合いに出して、畜産で動物を殺しているから、動物実験に動物を使う事は同じ動物利用であるから、肉食と同様に認めるべきという主張を展開しているが、上記でも書いたが畜産の堵殺は動物実験と同様であるのだろうか。動物利用を肯定する立場から見ても、堵殺は生きたまま解剖するのが目的ではなく、できるだけ早く殺してその後に肉塊にするのが目的であり、その残酷性は動物実験には遥かに及ばないだろう。また、肉が人間には必要であると誤解している立場から考えても、肉は生きるために必須であるといえるだろうが、すべての人が病気になるわけでもなく、病気に患ったとしても必ずしも死ぬほどの重病とはかぎらない製薬のための動物実験は生きるために必須であるとは言えない。このように、動物利用を容認する立場から畜産と比較しても動物実験の残虐性や必要性には大きな隔たりがあるだろう。


☆悪い方に基準を置くのは良いことか?

 また、この学会のこういった主張は、動物を殺すこと自体が悪いとされているにもかかわらず、悪い方に基準をおいてそれを認めろというのは、あいつも泥棒しているから自分も泥棒してよいとか、テロリストが人を残虐に殺しているから自分達も残虐に殺してよいという思考と同じ構図である。こういった思考は、こういった倫理的問題での価値判断の能力に問題があるとしか言えないだろう。

 上記の言葉の入れ替えの普遍化可能性テストでも有ったように、自分たちの普遍的でない主義主張を、命を奪うことを題材にして受け入れるよう脅すことこそが、正にテロリズムであるといえるだろう。





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