日本生理学会の動物実験正当化の主張への反論
日本生理学会 動物実験について http://physiology.jp/guidance/4804/
上記のように動物実験を正当化しようとする主張がある。読んでみるとわざとらしいぐらい、正当化の努力の跡が見られる。これは対一般社会への主張ではなく、自分たちの動物を殺すことへの罪悪感を打ち消すためのものではないかと思えるような主張が多いと思える。どんな人間でも生きたまま解剖して殺すなどという残虐な行為は悪いことだと自覚できるだろう。そして直観的にも、その罪悪感は消えるものではないだろう。そしてその罪悪感自体をなくすには、その悪を感じる心をなくしてしまえば罪悪感もなくなるということに繋がる。そのためには、誰もが肯定すると思える理由をつけて、正当化しておく必要がある。それをまとめたような主張がこの学会の動物実験への主張で、殆どがわざとらしいものであった。これがまた、あまりにも酷いので反論を加える事にした。なお、彼らの主張が動物実験関係者の中でも特段に悪いということではなく、動物実験関係者のよくある代表的な主張がまとまってあるので批判の対象にしたということを申し添えておく。
●自分たちの利益のためなら動物を自由に扱っても良い
言い分1.動物の尊い犠牲を通じて行われる動物実験は、生命現象の理解に大きな役割を果たし、 医学・医療に応用され、人類の健康と福祉にはかり知れない貢献をしています。 動物実験は開発された医療・医薬を人間に適用する前の欠くことのできないステップでもあり、今日、 その必要性と重要性はますます増大しています。 我々研究者が動物の命を大切に思う気持ちは多くの人々と同様で、実験に際しては動物の福祉と人道的取り扱いを 常に心がけています。 今後とも我々は、動物の使用に対して社会の皆様のご理解を得つつ、医科学研究の発展を通じて、 人類の健康と福祉の向上を目指す所存です。
☆種差別と金儲け
反論1. 「動物の尊い犠牲」とまるで他人事のような主張であるが、動物には当然の事ながら犠牲に成る意思もなく、それを無理矢理、生きたまま解剖するなどと残虐に殺しており、これは非常に傲慢な主張だと言わざるを得ない。もし殺人犯が自分の利益に成るからと殺しておいて「尊い犠牲」といえばどうなるだろうか。こういったことを平気で主張できるのは、動物実験が、人種差別や女性差別と同様の属性を理由にした差別である種差別を前提に成立しているからである。
この人間でない動物への種差別は、人間でない動物を人間でない人間に置き換えることで起きる人種差別に簡単に結び付き、過去にも実際に人権を無視した人体実験は行われてきている。こういった差別に基づく前提に依拠した動物実験の構造がある限り、今後もこう言った人間でも問題が起こり得ることは容易に想像できるだろう。
さらに問題なのは、人類の健康と福祉と言うように、自分達の利益のための動物実験を、さも社会的要請が有ったかのように勝手に社会を巻き込んでいることである。これは上記と同じような傲慢な主張であり、まさに詭弁の押し売りでしかない。
また、薬品の承認確率は約25000分の1であり、その全てで動物実験が行われてはいないだろうが、殆どの動物がその薬品の開発に全く役に立たずに生きたまま解剖されて残酷に殺されているのは事実である。そもそも、動物実験という悪行をせずに薬を開発すべきであるのに、製薬での営利活動のために手段を選ばず動物を生きたまま解剖するような虐殺をしてきたことは過去からの動物利用と言う慣習があったにせよ道徳的に異常なことである。
一般的に企業・法人は営利が目的である。製薬会社とて一般の企業・法人と変わらず営利目的である。つまり、金儲けが目的である事は紛れの無い事実である。もし、患者のためであるなら、お金を儲けようとしない非営利法人やボランティアで行われているはずである。この事からも、事実上、他の企業と同じく利益追求のため薬を開発し製薬し販売している営利団体でしかない。
また、動物実験の目的が人類の健康と福祉の向上を目指すという主張は上記でも述べたが論理のすり替えで全くのでたらめである。もし彼らが利他主義的に本当にそうするのであれば無料奉仕や薬の無料配布が大量になされているはずである。もし、そう言ったことが頻繁に行われているのであれば、目的が「人類の健康と福祉の向上を目指す」と言うことは言えるかもしれないが、現実はそうではない。そもそも、動物を殺す事自体で利他主義とはいえず、この時点で彼らのロジックは破綻している。
☆動物実験は正当化できるのか?
動物実験の普遍化可能性については以下のようになるだろう。
金儲けの為に犬を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に女性を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に黒人を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に子供を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に猫を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為にうさぎを残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
上記は良く有る、簡単な普遍化可能性テストだが、おそらく、差別主義者や苦痛に配慮できない自分勝手な人間以外は、全部間違っていると指摘すると思われる。つまり、これらは普遍化不可能だと言うことである。そのまま言っても動物実験関係者の論理が普遍化不可能だと言うことである。
また、人間のほうが実験をするにあたって同種であるために圧倒的に効率が良いにもかかわらず、人体実験をせずに動物実験をすることは、人間と動物が同様に苦痛を感じる以上、動物だけに異常な負担をかけることは、上記に書いたような差別でしか無い。動物実験関係者が差別主義者ではないとするなら、動物実験は明らかに矛盾してしまう。
そして、明らかに異常と思えるのは、「動物の福祉と人道的取り扱いを 常に心がけています。 」ということだが人道的に動物を扱うなら生きたまま解剖など出来ないはずである。生きたまま解剖することがどのような理由で人道的と言えるのだろうか?彼らにとっては生きたまま解剖することが人道的なのであろうか?こういった「人道的」という、さも自分達が人格者で有るような言葉の使用で誤魔化すように論理をすり替えることは悪質であると言わざるをえない。いったい何匹殺して、何匹助けたというのだろうか?仕事では仕方なく殺すが、人道的に動物を扱うという思いから普段の生活では倫理的ベジタリアンだという話は全く聞こえてこない。
●動物実験は必須なのか?/利害関係者からの脅迫
言い分2.はじめに 私たちの生存を守る医学の発達は動物実験によって成り立ってきました。 ヒトの健康と福祉を追求する医科学研究にとって動物実験は必須の手段です。 私たち人間が現在のように存在し生活できるのは、今までに行われてきた動物実験のおかげといっても過言ではありません。 一方で、動物の命を犠牲にする動物実験に反対する立場もあります。
実験に利用される動物がかわいそうという思いは人間として当然であり、 実際その感情は私たち研究者も共有します。しかしそういう感情を大事にするとともに、 自分たちが受ける医療や服用する薬がどのように動物実験に依存しているか、もし動物実験がなかったらどうだったか、 もし必要な実験が制約を受けることになったら今後どんな事態が予想されるか、といったことを理性的に判断することも大切です。
医科学研究における動物実験は国民が真剣に考える必要のある重要な問題です。 日本生理学会では会員のほとんどが動物実験に携わっています。 そこで私ども日本生理学会が動物実験をどう考えているか、見解を示しご理解を求めます。
☆差別と置き換えテスト
反論2. 見事なほど論理のすり替えや、偽善的な言葉で誤魔化そうとしているので、この論理がいかに差別的な論理であるかをわかりやすくするために、被差別者を置き換えて、その論理自体が正しくて普遍性を持つものかどうか置き換え実験をしてみた。被差別者である動物での「動物実験」を同じ被差別者である「黒人の人体実験」と置き換えてみた。
『私たちの生存を守る医学の発達は黒人の人体実験によって成り立ってきました。 ヒトの健康と福祉を追求する医科学研究にとって黒人の人体実験は必須の手段です。 私たち人間が現在のように存在し生活できるのは、今までに行われてきた黒人の人体実験のおかげといっても過言ではありません。 一方で、黒人の命を犠牲にする黒人の人体実験に反対する立場もあります。
実験に利用される黒人がかわいそうという思いは人間として当然であり、 実際その感情は私たち研究者も共有します。しかしそういう感情を大事にするとともに、 自分たちが受ける医療や服用する薬がどのように黒人の人体実験に依存しているか、もし黒人の人体実験がなかったらどうだったか、 もし必要な実験が制約を受けることになったら今後どんな事態が予想されるか、といったことを理性的に判断することも大切です。
医科学研究における黒人の人体実験は国民が真剣に考える必要のある重要な問題です。 日本生理学会では会員のほとんどが黒人の人体実験に携わっています。 そこで私ども日本生理学会が黒人の人体実験をどう考えているか、見解を示しご理解を求めます。』 以上普遍化可能性による置き換えテスト。
正常な成人であれば、言葉を入れ替えただけで、彼らの明らかな差別的論理がわかると思う。この差別の論理を平気で使い、その異常性がわからないで平気でこういう主張を書ける人たちの集まりが日本生理学会なのだろうか。
この論理は、金儲けのために不正な動物実験をしてきたが、それが人間の役に立っているので、その不正を認めろという、中国で言えば昔よくあった、「愛国無罪」と同じ主張をしているだけである。お国のために行った犯罪は無罪になって良いものなのだろうか? 為になることはあったとしても犯罪は犯罪であり、否定されるべきものである。ましてや動物実験の場合は金儲けの副産物として人間に利益が生じただけであり、愛国無罪よりまだたちが悪いといえるだろう。
したがって、当然のことながら動物実験も否定されるべきである。また、このように書くと動物実験は犯罪ではないという単純な反応が予想できるが、ここで議論しているのは法的な問題での議論ではなく道徳的問題であり、この場合、「犯罪=悪」という道徳的な議論であることに留意する必要がある。
☆正当な理由はあるのか
また、こう言った事実を理性的に判断するのであれば、過去には動物が苦痛を感じるとも証明されておらず、動物は人間が利用して良いとも思われていたし、事実、そのような慣習も存在していた。そして、動物は物のように扱われてきたが、現在では、進化生物学などでは動物は人間と連続した存在であると言われており、また人間同様に苦痛を感じる存在であることが分かっており、人間が苦痛を良いこととしない以上、人間に苦痛を与えてはいけないのであれば、動物にも苦痛を与えてはいけないし、また、動物実験が無くなったにせよ、それが理由で今までより我々の生活がより悪くなるわけでもない。つまり、動物実験は人間が持つ共通認識である苦痛への配慮からも正当化できる理由がない。
●肉食と動物実験
言い分3 1. 動物実験の目的・必要性 人類誕生以来、病気との戦いは絶え間なく続いています。医学研究はその勝利を偶然や奇跡 ではなく、科学的根拠に基づき実現することを目標としています。そのためには、まず人間の身体、臓器や組織、あるいは細胞が、どのように働いているかを研究する必要があります。同時に、病気の原因とメカニズムの解明が求められます。また、薬や医療技術が開発されると、その薬が、あるいは技術が、いかに人体 に作用するか、副作用はないか等を細心の注意をもって調べる必要があります。これらの研究の多くは生体を用いることを不可欠とし、人間を用いた研究や試験 も行われます。しかし、人間を用いる研究には、当然、厳しい限界があります。やむを得ない策として、人間と同じ生命原理が働いて生きる動物に犠牲を求めます。これは、我々が食物として動物を用いるのと同じ道理であり、動物を犠牲にして生きる人間の生の一面です。当然、我々研究者は、生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱います。また、開発された医療や薬が動物自身の健康と福祉にも多大の貢献していることを強調しておきます。
☆言葉の置き換え実験と肉食
反論3 これも同じく、この論理がいかに差別的な論理であるかをわかりやすくするために、言葉の入れ替えテストを行ってみた。いかに目的のために手段を選んでいないかがよく分かるだろう。(動物→黒人)
『前略、これらの研究の多くは生体を用いることを不可欠とし、人間を用いた研究や試験 も行われます。しかし、人間を用いる研究には、当然、厳しい限界があります。やむを得ない策として、人間と同じ生命原理が働いて生きる黒人に犠牲を求めます。これは、我々が食物として黒人を用いるのと同じ道理であり、黒人を犠牲にして生きる人間の生の一面です。当然、我々研究者は、生命に対する畏敬の念を もとに、用いる黒人を可能な限り人道的に取り扱います。また、開発された医療や薬が黒人自身の健康と福祉にも多大の貢献していることを強調しておきます。』
☆肉食との違い
そもそも、彼らの言う理由は動物を食べているのと同じだから、残酷に生きたまま解剖して良いとするもので、この理由は彼らの主張の中でも矛盾しているものである。食べるときに動物を生きたまま解剖して解体するのだろうか?もしそういう人がいれば異常者とされるだろう。そのような一部の異常者の論理を人間の生の一面とするのは迷惑な詭弁でしか無いだろうし、明らかに程度の差を無視した暴論でしか無いだろう。しかも、営利活動でしか無い製薬を人類のためと偽善的にごまかしている。もっと言えば、人間は雑食性のため動物を殺さなくても生きていけるだろう。以下は雑食と菜食を比較検討したアメリカ栄養士会の見解である。長いので要約の部分を示しておく。
☆肉食は必須か?
世界の栄養の専門家達はどのように結論しているのか見てみると、世界最大の栄養学の専門家集団であるアメリカ栄養士会の見解が出されている。このアメリカ栄養士会の見解を要約すると、204もの論文での菜食と雑食の健康への影響を比較検討し、菜食のリスクは栄養強化食やサプリメント、又は適切な食材を使うことによって回避できるが、雑食は健康への根本的なリスクをもつ肉食があるために、肉食の持つ解消できない様々なリスク、あるいは菜食と比べた場合に大きくなるリスクがあるために、菜食は雑食に比べて健康的であるという結論であり、ADAは健康のために菜食を推奨している。
Position of the American Dietetic Association:
Vegetarian Diets
ABSTRACT 要約
It is the position of the American Dietetic Association that appropriately planned vegetarian diets, including total vegetarian or vegan diets, are healthful, nutritionally adequate, and may provide health benefits in the prevention and treatment of certain diseases. Well-planned vegetarian diets are appropriate for individuals during all stages of the life cycle, including pregnancy, lactation, infancy, childhood, and adolescence, and for athletes.
A vegetarian diet is defined as one that does not include meat (including fowl) or seafood, or products containing those foods. This article reviews the current data related to key nutrients for vegetarians including protein, n-3 fatty acids, iron, zinc, iodine, calcium, and vitamins D and B-12. A vegetarian diet can meet current recommendations for all of these nutrients. In some cases, supplements or fortified foods can provide useful amounts of important nutrients. An evidence-based review showed that vegetarian diets can be nutritionally adequate in pregnancy and result in positive maternal and infant health outcomes.
The results of an evidence-based review showed that a vegetarian diet is associated with a lower risk of death from ischemic heart disease. Vegetarians also appear to have lower low-density lipoprotein cholesterol levels, lower blood pressure, and lower rates of hypertension and type 2 diabetes than nonvegetarians. Furthermore, vegetarians tend to have a lower body mass index and lower overall cancer rates. Features of a vegetarian diet that may reduce risk of chronic disease include lower intakes of saturated fat and cholesterol and higher intakes of fruits, vegetables, whole grains, nuts, soy products, fiber, and phytochemicals.
The variability of dietary practices among vegetarians makes individual assessment of dietary adequacy essential. In addition to assessing dietary adequacy, food and nutrition professionals can also play key roles in educating vegetarians about sources of specific nutrients, food purchase and preparation, and dietary modifications to meet their needs.
J Am Diet Assoc. 2009;109:
1266-1282.
適切に計画された全てのベジタリアンやビーガン食を含む、菜食は、健康的であり、栄養的に適切であり、そして特定の病気の治療と予防において健康に寄与することはADAの見解である。良く考えられた菜食は、妊娠、乳児、幼児、子供、青年を含む個人の生活習慣の全ての段階で適切である。
菜食は家禽を含む肉や魚類、またはこれらの食べ物を含んで生産されたものを含まないものであると定義されている。この論文は、プロテイン、n-3、脂肪酸、鉄、亜鉛、ヨウ素、カルシウム、ビタミンDとB-12を含むベジタリアンの為の鍵となる栄養素に関連する現在のデータを再検討したものである。菜食は現在においてこれらの栄養素の全てに推薦できる条件を満たす。一部の例では、サプリメントや栄養強化食品が重要な栄養素の有用な量を与える事が出来る。証拠に基づく再検討では、菜食が妊娠や、はっきりした妊娠の結果、幼児の健康の成果において栄養的に適切であることが見られる。
証拠に基づく再検討の結果は、菜食が虚血性の心臓病からの死のリスクをより低くすることに結びつけられている。ベジタリアンは又、ノンベジタリアンより、低比重リポタンパクコレステロールのレベルをより低くし、血圧を下げ、タイプ2の糖尿病と高血圧の数値を下げることも明らかになっている。その上、ベジタリアンは肥満指数をさげ、全てのガンの罹患率を下げる傾向が有る。菜食の特徴は飽和脂肪とコレステロールの摂取量を減らし、フルーツや野菜、穀物、ナッツ、大豆製品、繊維、や植物性化学物質の摂取量を増やし慢性疾患のリスクを減らす。
このベジタリアンに共通する食習慣のばらつきは、食事の妥当性の本質的な要素の個人的な評価である。加えて、食事の妥当性の本質的な要素の評価は、食べ物と栄養の専門家が 特定の栄養素の材料、そして食べ物の購入、そして、彼らの必要を満たす食事の改良についてベジタリアンを教育する役割を担うことが出来る。
上記のように動物を食べなくとも、より健康的に人間は生きていけるだろう。なぜ動物を食べるかといえば、過去からの慣習や、味覚のためということになるだろう。そしてこのことは「やむを得ず』とはならないことを意味しているばかりでなく、人間と同様に苦しむことができる動物を、味覚や過去からの慣習という道徳的に意味のないことを利己的に優先し、日本人の場合で食事量のたった7%(農水省データより)でしかない肉食を他の植物性食品に置き換えるという努力や自律さえ出来ないということを意味している。もし彼らが自らの言うとおり「生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱っている」のであれば、彼らの食事もベジタリアンであろうし、その発想と生きたまま切り刻む発想は一致しないので、このような文章はそこには存在しないはずである。これは、彼らが「生命に対する畏敬の念を もとに、用いる動物を可能な限り人道的に取り扱っていない」ということである。そして、可能な限り動物を人道的に扱うのであれば、たった7%の植物性食品への置き換えなど既に行っているはずであり、これは、彼らの言い分とは明らかに矛盾している。
☆動物のために薬は開発されているのか?
そして、開発された薬品が動物の治療にも役立っているとのことであるが、動物専用に開発された薬品は殆ど無いだろう。あったとしても「利益の追求の可能性のある」ペット用等の一部の例外をのぞいて、人間用に開発された商品が単に動物に流用されたということに過ぎないだろう。この論理も、営利目的を患者の救済という利他的行動とすり替えるのと同じく、人間への商品開発を動物の商品開発のように利他的行動とすり替えるという、論理のすり替えにしか過ぎない。こういった論理のすり替えでの偽善的な発想は動物実験関係者によく見られるパターンである。こういった怪しげな論理でごまかさなければ、いわゆる正当化出来たように見えないのが動物実験の論理だということになるだろう。この反論に利益がなければ薬を作らないというのが考えられるが、それだと、金儲けのために動物実験をしていることを認めることになり、彼らの論理は破綻するだろう。
●人間は動物を利用しなければ生きていけない?/薬を選ぶか死を選ぶかの二者択一は正しい?
言い分4. 1. 動物実験反対運動に対する見解 動物実験に利用される動物はかわいそうという一般の人々の素朴な心情は、十分に理解でき ますし研究者も同じ気持ちです。愛くるしい動物を実験に使うとき、あるいは何ヶ月も実験につきあってくれた動物を殺さなければならないときに、研究者の心 も痛みます。その意味で、動物実験に反対する人々の心情は理解できますし、皆さんこころの優しい人々であると信じます。一方、人間の生は他の動物の犠牲の 上に成り立っているという側面も直視しなければなりません。パックされた肉は手軽に購入できますが、裏には屠殺という現実があるように、我々が普段に享受 する医療の裏には動物実験が存在するのです。
動物実験に反対する多くの人々は、必要な医療は受けたいし肉も食べたいが、実験に使用される動物がかわいそうだから実験は止めて欲しい、という考えであると思います。しかし、その願いは両立しません。残念ながら、規則正しい生活をしても病気 になる場合もありますし、未だに克服できずにいる難病も数多く残っています。結核のように、一時は下火になったと思われた病気も再び広がり、問題となって います。SARSやエイズなど新しい病気も絶えません。病気になったら自然のままに死ぬという訳にはいかず、少しでも良い治療法を開発したい、して欲しい という願望は当然のものです。やはり、動物実験を含む科学的手段を尽くして病気を解明し、治療法を開発すべきだと考えます。動物の使用に際して、研究者が 動物の福祉を重んじ、優しく人間的に扱うべきことは言うまでもありません。当学会においても研究倫理委員会を中心に動物福祉の充実に努めていますが、実際 に研究者がそう考え、行動していることは一般の方々に知っていただきたいと思います。
☆殺される動物は本当にかわいそうに思っているのか?
反論4. 殺される動物が可哀想であると思うのであれば、殺す必要はないだろうし倫理的不服従という手段も考えられるだろう。結局そういった行動に出ないのは、金儲けのためか、論文のためという利己的な動機が動物を残虐に扱い結果的に殺すことより重要視されているのに他ならない。これは、我々、一般人が残虐な行為を否定し、反対するような動機での生命尊重や共感能力を通じての同情や慈悲とは全く違う異質のものであるか、ものすごく大きな程度の差があるということであり、それはもはや質の差と言っても良いだろう。そして、それは利己的な行為と利他的な行為を同一視するような、恐らく恣意的な論理の飛躍に基づくものであろう。
また動物実験を行う研究者や関係者が動物が可哀想であるとか動物の犠牲を減らしたくないのであれば、動物実験は仕事であるので仕方がないと考えたとしても、動物の犠牲を減らすような行動をしているのかといえば、それも疑問である。もし、そうであるなら自分たちが殺した動物の犠牲を、社会生活において、より増やさないためにも普段の生活において動物を殺さない、あるいは傷つけないような生活をするはずである。しかし、動物を護る様な行動、つまり倫理的ベジタリアンな動物実験関係者や動物保護活動をしているような動物実験関係者にはお目にかかったことはないし、聞いたこともない。ここでも、動物実験関係者も動物をかわいそうにと思うという偽善的な言い逃れが見て取れる。
☆動物を利用しない選択肢はないのか
また、上記にも書いたが、人間は他の生物を利用しなければ生きていけないのは事実であるが、パックにされた肉が必要ないのと同じで、動物を利用しなくとも生きていける。そして、我々は道徳的に様々な選択肢がある。他の生物を利用しなければ生きていけないとしても、同じ利用しなければならないのであれば、人間が苦痛を善しとしない以上、苦痛を感じることの出来ない生物を利用すべきである。わざわざ人間が普遍的に持つであろう苦痛の回避、つまり苦痛の否定を無視してまで、人間同様に苦痛を感じることのできる動物を利用する必然性は無いはずである。したがって、このような一貫性を無視した動物利用の肯定は自己破綻しており、同じく動物実験の論理も破綻している。
☆我々は製薬を否定しているのか?
そして、数多くある難病や新しい病気に対して薬を作るのは大いに結構なことだとは思うが、感情的にも道徳的にも不正な動物実験をしないで作るべきである。そもそも、製薬者に人類にために新薬を開発しなければならない義務はない。何故、そこまで薬を作りたがるのであろうか。患者や人類のためという利他的な行為を目ざすのであれば、動物愛護団体やボランティア団体のように無料奉仕や勤労奉仕をするはずである。高給をもらっては薬の価格にストレートに影響するため、とても高給はもらえないだろう。彼らは無給でも動物実験をして患者や人類のために薬を作り続けるという利他的行動をするのであろうか?動物を生きたまま解剖するのだろうか? もしそうであれば、趣味嗜好で動物を切り刻んで殺すことになり異常者扱いされるだろうし、結局、営利が目的としか言いようがない。
「金儲けのために」と言うと、すぐに誤解する人が出てくるので、誤解の無いように言っておくが、私は営利活動が悪いからやめろと言っているのではない。営利という目的のために動物を残虐に殺すという、手段を選ばないことが問題だと言っているのであり、その悪行を隠すために製薬の目的が人類のためや患者のためという論理のすり替えをする姑息な態度が良くないと行っているだけである。誤解のないようにもう一つ付け加えれば、仮に人間に役立つ犠牲を伴う動物実験があったとしても、それに賛成している訳ではないという事である。なぜなら、人間に同意なく人体実験してはいけないのであれば、同意をとれない動物にも同じ理由でしてはいけないからだ。
☆動物実験に反対するならその責任を追うべきか
また、動物実験がなくなったとして、あるいは開発が遅れたとして、また薬の開発が遅れたために患者に影響が出たとして、それは動物樹実験反対を主張する人が責任を追うべきなのだろうか。そして、それは非難されうるのだろうか? 例えば研究者の個人的な都合で薬の開発が出来なくなったり、あるいは遅れたとして、大勢の患者が死んだところで、研究者が罰せられることはないだろう。もし罰せられるのであれば休みなく奴隷のように働かなければならないだろう。同じく動物実験をやめて薬の開発ができなくなったり、開発が遅れたとしても誰も責任は問われることはないだろう。薬ができるのか出来ないのか、その薬が有効なのかそうでないのか、未来のことは誰もどうなるか予見できないからであり、病気になったのは動物実験を叫ぶものや動物実験関係者の責任ではないと考えられるからだ。薬の開発と動物実験の中止の関係はこの程度のことでしか無いと思われる。
☆動物実験をなくせない責任
そして、動物実験がなくなって薬の開発の速度が著しく遅れたとしても、それは不正な動物実験の廃止を求めた消費者の責任ではない。責任があるとすれば、動物実験という企業や研究者にとって不正な甘い汁の中毒から長年に渡り抜け出せなかった両者への責任は重大だと思われる。つまり、以前から叫ばれていた、目的のため手段を選ばないという不正な動物実験の批判に聞く耳を持たず、代替法の研究を疎かにして殆ど何もしてこなかった責任は製薬企業や研究者にあるといえるからだ。その事を棚にあげて、動物実験がなくては薬ができないと言い訳するのは、自分で原因を作っておいて、つまり、金儲けのためにわざと代替法を作らずその科学的な進歩を遅らせておいて、出来ないと言うことは、科学の否定であり、科学者として失格である。
消費者や患者は、動物実験の何たるかを知る前に、動物実験のこういった不都合な真実を知る必要があるだろう。
☆薬の承認確率と動物実験
薬の承認確率は約25000分の1ぐらいである。その内の何割かで動物実験が行われ、その動物実験を通過した薬品で人間を使った臨床実験が行われ、それに合格すれば薬として、結局、約25000分の1の確率で承認される事になるわけである。これは、結果的に、殆どの動物実験が薬として承認されない化合物のために行われていることを意味している。そして、こういった事実があるにも関わらず、動物実験が人間の役に立っているという主張は、わずかな事例をすべての事のようにいう詭弁であろう。正確に言えば薬の承認確率から考えて、1000の化合物で動物実験が行われれば999の実験に使われる動物が、500の動物実験であれば499の実験に使われた動物が合格した薬品の認可とは無関係に殺されており、つまり、ほんのごく僅かな動物実験だけがその薬の開発に役立っており、殆どの動物実験がその化合物の製品化に役立っていないというのが妥当だろう。(これは、動物実験が行われた化合物の数であり、動物実験に利用された動物の数でないことに留意する必要がある) これに加えて動物実験自体が持つ残虐性に関する道徳的不正や動物実験関係者のこう言った詭弁を使った不正な主張が薬の信頼性にも影響を与えているのでは無いだろうか。非差別、非苦痛、一貫性の肯定のような道徳的規範を否定し、残虐性を函養させ、詭弁を使った論理を飛躍させるという倫理的感覚の欠如が、データの改竄や、最近ニュースでも話題になっているような、でっち上げとされる研究結果をもたらしているのではないかと言っても過言ではないだろう。
☆動物実験と畜産は同様か
そして、この学会では畜産に関する動物利用を引き合いに出して、畜産で動物を殺しているから、動物実験に動物を使う事は同じ動物利用であるから、肉食と同様に認めるべきという主張を展開しているが、上記でも書いたが畜産の堵殺は動物実験と同様であるのだろうか。動物利用を肯定する立場から見ても、堵殺は生きたまま解剖するのが目的ではなく、できるだけ早く殺してその後に肉塊にするのが目的であり、その残酷性は動物実験には遥かに及ばないだろう。また、肉が人間には必要であると誤解している立場から考えても、肉は生きるために必須であるといえるだろうが、すべての人が病気になるわけでもなく、病気に患ったとしても必ずしも死ぬほどの重病とはかぎらない製薬のための動物実験は生きるために必須であるとは言えない。このように、動物利用を容認する立場から畜産と比較しても動物実験の残虐性や必要性には大きな隔たりがあるだろう。
☆悪い方に基準を置くのは良いことか?
また、この学会のこういった主張は、動物を殺すこと自体が悪いとされているにもかかわらず、悪い方に基準をおいてそれを認めろというのは、あいつも泥棒しているから自分も泥棒してよいとか、テロリストが人を残虐に殺しているから自分達も残虐に殺してよいという思考と同じ構図である。こういった思考は、こういった倫理的問題での価値判断の能力に問題があるとしか言えないだろう。
上記の言葉の入れ替えの普遍化可能性テストでも有ったように、自分たちの普遍的でない主義主張を、命を奪うことを題材にして受け入れるよう脅すことこそが、正にテロリズムであるといえるだろう。
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