これは以下の「何故ベジタリアンなのか?」と言うページのの続きである。できれば先に読んでみてください。苦痛の問題に関しては下記のページに説明してあります。

何故ベジタリアンなのか?


Q.動物も同じ命なのに何故、植物を食べるのか

A.これは同じ命という事で動物と植物の命の平等性を前面に押し出した一貫性を求めた議論である。しかし、動物と植物が同じ命であるならば、植物と人間、(動物である)人間と動物も同じ命であるという事である。つまり命という部分で線引きをしているわけであるが、同じ命であるから植物も動物も食べても良いとするのであれば、同じ命である人間も食べても良いとならなければ命の平等性は保てない事になり、我々が人間を食べていない以上、命の平等性が失われ、同じ命だからという理由自体が破綻するだけでなく、我々の直観にも反する事になり、結局、破綻している。これは自分たちの都合の良い部分だけを前面に押し出したが、逆の部分を検討していないか、人間だけが特別であるという慣習のためにその部分を検討さえしていないというお粗末な結果を導き出している。

ちなみに、この線引きを苦痛を感じる能力におくと、人間も動物も食べてはいけないという事で、我々の直観に反する事はまったく無くなる。

これとは別に植物を食べる理由として、人間は何かを食べていかなくては生きていけないが、人間が苦痛を回避し善しとしない以上、多大な苦痛を感じる事のできる存在であり人間と連続した存在である動物を殺して食べるより、苦痛を感じる事のできない存在である植物を食べたほうが良い選択であると言えるからである。同じ命という線引きの観点から見ても、同じ食べるなら「命+苦痛」より「命」だけを奪うほうがより悪くない選択と言えるだろう。

また、人間は特別であると言う理由に、人権や法律を持ち出す人がたまにいるが、こういった道徳や法理的な議論に人権や法律を持ち出す事自体が、カテゴリー・ミステイクであり、現在ある法律・法理において動物が物とされる事を批判しているのに、その批判されている法律や法理を根拠にする事は、矛盾しているばかりでなく議論上の時系列に反するという事になる。つまり、「この法律は何故正しいのですか」という問いに「この法律があるからです」というようなものである。

どちらにせよ、人間が何故特別であるのかということを一貫性を保ち、非差別での議論で証明する必要が出てくる事になる。



Q.動物に感謝し、無駄なく利用するから動物の利用は許される。

A.これはよく言われている言い訳だが、人間は一方的に動物を搾取する立場にある。感謝は通常、相手の自由意思による自己決定で行われる行為に対して行われるのであり、動物が自らの死を自己決定で行為していない以上(強制である以上)、感謝とはいえない。例えば、いきなり他人に殴られて、「ストレスの解消になりました、感謝します」と言われたとき、許せるのだろうか。同じ様な行為を、人間と同じように苦痛を感じる存在である動物にしておいて、あるいはそれに間接的にも加担しておいて、感謝するということは、まさに人間の傲慢にしか過ぎない事に気づくべきだろう。

そして、無駄なく利用する事と、殺して良いことは何の関係もなく、理由にすらなっていない。無駄なく利用されるから殺されても良いと思う人はいないだろう。そして、これは無駄なく利用しようがするまいが殺して良いとも、殺されても良いともならないと言うことである。さらに、動物だけか殺されても良いという主張は動物だからという属性を理由にした差別でしかない。したがって、動物に感謝し、無駄なく利用するから動物の利用して良いという主張は理由さえなく論外である。

そして動物が死んだ後、どうされようが何も分からない、つまり、死んだ動物にとって「死後に利用されること」は何の意味もない。したがって全てを利用しようが、するまいが、まったく理由にならない。



Q.みんなが菜食主義になると農耕面積を増やさなくてはならず、環境破壊につながるのか

A.上記にも書いたが、全く逆で、人間の食事での肉食の割合は7%(日本の場合で重量ベース)であり、人間が植物を直接食べることに比べて6-10倍以上も動物を育てるための飼料として植物が消費されることから(現在、地球上の全耕作面積の70%で家畜用飼料の穀物が生産されている)、人間が菜食だけにすれば農地の作付け面積は単純計算で半分以下になることになり、環境破壊にはならないばかりか、環境に優しいということになるばかりでなく、もし食料の配分が公正に分配されるのであれば、人間の飢餓の救済にも結びつくことになる。



Q.菜食主義は偏食だから栄養が偏るのか

A.まず、菜食主義であろうが、雑食であろうが偏食は栄養が偏ります。これは食事における大前提です。そこでこの問題を考えて見ることにする。

世界の栄養の専門家達は動結論しているのかということで、世界最大の栄養学の専門家集団であるアメリカ栄養士会の見解が出ています。ここで要約するとアメリカ栄養士会の見解をよく読んでみると、204もの論文での菜食と雑食の健康への影響を比較検討し、菜食のリスクは栄養強化食やサプリメント、又は適切な食材を使うことによって、回避できるが、雑食は健康への根本的なリスクをもつ肉食があるために、肉食の持つ、解消できない様々なリスク、あるいは菜食と比べた場合に大きくなるリスクがあるために、菜食は雑食に比べて健康的であるという結論であり、ADAは菜食を推奨している。

Position of the American Dietetic Association:
Vegetarian Diets

ABSTRACT 要約
It is the position of the American Dietetic Association that appropriately planned vegetarian diets, including total vegetarian or vegan diets, are healthful, nutritionally adequate, and may provide health benefits in the prevention and treatment of certain diseases. Well-planned vegetarian diets are appropriate for individuals during all stages of the life cycle, including pregnancy, lactation, infancy, childhood, and adolescence, and for athletes.

A vegetarian diet is defined as one that does not include meat (including fowl) or seafood, or products containing those foods. This article reviews the current data related to key nutrients for vegetarians including protein, n-3 fatty acids, iron, zinc, iodine, calcium, and vitamins D and B-12. A vegetarian diet can meet current recommendations for all of these nutrients. In some cases, supplements or fortified foods can provide useful amounts of important nutrients. An evidence-based review showed that vegetarian diets can be nutritionally adequate in pregnancy and result in positive maternal and infant health outcomes.

The results of an evidence-based review showed that a vegetarian diet is associated with a lower risk of death from ischemic heart disease. Vegetarians also appear to have lower low-density lipoprotein cholesterol levels, lower blood pressure, and lower rates of hypertension and type 2 diabetes than nonvegetarians. Furthermore, vegetarians tend to have a lower body mass index and lower overall cancer rates. Features of a vegetarian diet that may reduce risk of chronic disease include lower intakes of saturated fat and cholesterol and higher intakes of fruits, vegetables, whole grains, nuts, soy products, fiber, and phytochemicals.

The variability of dietary practices among vegetarians makes individual assessment of dietary adequacy essential. In addition to assessing dietary adequacy, food and nutrition professionals can also play key roles in educating vegetarians about sources of specific nutrients, food purchase and preparation, and dietary modifications to meet their needs.

J Am Diet Assoc. 2009;109:
1266-1282.

適切に計画された全てのベジタリアンやビーガン食を含む、菜食は、健康的であり、栄養的に適切であり、そして特定の病気の治療と予防において健康に寄与することはADAの見解である。良く考えられた菜食は、妊娠、乳児、幼児、子供、青年を含む個人の生活習慣の全ての段階で適切である。

菜食は家禽を含む肉や魚類、またはこれらの食べ物を含んで生産されたものを含まないものであると定義されている。この論文は、プロテイン、n-3、脂肪酸、鉄、、亜鉛、ヨウ素、カルシウム、ビタミンDとB-12を含むベジタリアンの為の鍵となる栄養素に関連する現在のデータを再検討したものである。菜食は現在においてこれらの栄養素の全てに推薦できる条件を満たす。一部の例では、サプリメントや栄養強化食品が重要な栄養素の有用な量を与える事が出来る。証拠に基づく再検討では、菜食が妊娠や、はっきりした妊娠の結果、幼児の健康の成果において栄養的に適切であることが見られる。

証拠に基づく再検討の結果は、菜食が虚血性の心臓病からの死のリスクをより低くすることに結びつけられている。ベジタリアンは又、ノンベジタリアンより、低比重リポタンパクコレステロールのレベルをより低くし、血圧を下げ、タイプ2の糖尿病と高血圧の数値を下げることも明らかになっている。その上、ベジタリアンは肥満指数をさげ、全てのガンの罹患率を下げる傾向が有る。菜食の特徴は飽和脂肪とコレステロールの摂取量を減らし、フルーツや野菜、穀物、ナッツ、大豆製品、繊維、や植物性化学物質の摂取量を増やし慢性疾患のリスクを減らす。

このベジタリアンに共通する食習慣のばらつきは、食事の妥当性の本質的な要素の個人的な評価である。加えて、食事の妥当性の本質的な要素の評価は、食べ物と栄養の専門家が 特定の栄養素の材料、そして食べ物の購入、そして、彼らの必要を満たす食事の改良についてベジタリアンを教育する役割を担うことが出来る。



Q.ベジタリアンは何故それを人に押しつけるのか?

A.それは全くの誤解で、押しつけている人など殆どいないだろう。押しつけるというのは無理矢理何かをさせようとることである。だからベジタリアンになろうと言うことは押しつけでも何でもない。そして、それをしない自由を束縛している訳ではなく、しない自由は全ての人間にある訳であるから。そして、動物愛護をしている人に、動物を愛し護りましょうということは、当たり前のことだと思われる。何故なら、一番簡単で効果的な動物愛護が、動物を殺させないために肉を食べないことであるから。そして、これは何故押しつけのように感じるかを考える必要があると思う。これは、利他的ベジタリアンの主張は動物を殺す事に加担するか、しないか、と言う問題に直結しているからで、本当は動物を殺したくないのに、何も気づかず肉を食べている人や、気づいていても肉を食べたい人は否が応でも自分が動物を殺すことに加担していることに気づかされるか、あるいはその事実を思い起こされたり指摘されたりしていると感じるからであろう。そしてそこには、動物を殺すことは悪であるとの認識と、肉を食べることによって動物を殺すことへ加担しているという認識との大きな矛盾はその矛盾を認識する原因を引き起こしたために、自分自身に良心の呵責という苦痛を引き起こした(彼らにとって都合の悪い)奴こそ利他的ベジタリアンということになるからだと言えるだろう。

これは、つまり、自分自身の心の中の罪悪感が、自分自身に苦痛を覚えさせているわけで、その結果、良心の呵責に苛まれながら、良心側に位置する利他的ベジタリアンを非難するという、二重に矛盾を抱えることとなる場合が多く見られる。しかし、実際はこの矛盾は利他的ベジタリアンが引き起こしたものではなく、自分自身で潜在的に引き起こしていると言うことに気づいていないだけで、つまり、その引き金を引いた利他的ベジタリアンが目障りだと言うわけであり、その生じた矛盾を利他的ベジタリアンに押し付けていると言うことに気付くべきだろう。



Q.こういった議論では動物を擬人化しているのでは?

A.よく動物愛護やその倫理的な議論において擬人化という言葉が使われている。これは普遍化可能性の原則に基づく議論の中で動物に行われている行為を人間に置き換えて価値判断を判りやすくするような思考実験に対して、そのことを理解していない人からの単純な批判に良く使われている言葉である。

この擬人化というのは何を意味するのだろうか。そして擬人化はよくないことなのであろうか。少し考えてみることにした。

辞書などによれば、擬人化とは、人間以外のものを人間のように扱うこととされている。動物に食事を与えることは擬人化といえるのであろうか。これは擬人化とはならないだろう。なぜなら、動物の食べ物を食べる能力は人間と同様であるが、食べ物を食べる能力は、もともと動物自身がもっている能力に過ぎないからである。

しかし、これが人間に良く似たような人形であればどうであろうか。人形には生命があるのでもなく、食事もとらない。これを人間同様に扱うことは擬人化といえるだろう。つまり、その違いは持っている能力にあると言うことができる。したがって、人間と同様な能力を持つことについては擬人化とはいえない。

だから、人間と動物のもつ同じような能力の比較や、その能力に関する思考実験などは擬人化とは呼べない。この同じような能力に関しては、動物の場合は苦痛を感じることのできる能力や知的能力などが当てはまり同様の能力であるかあったとしても程度の差しかない。さらに人間と動物に関する遺伝子的なことも含めると、例えばチンパンジーなどは人間と約98.77%が同じであると言われており、ほとんどが同じような能力であるいえる為に、擬人化といえるのは僅か1.23%に過ぎないことになる。http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200706230224.html

擬人化という言葉だけでは差別とはならないが、擬人化ということにより動物に苦痛を与えることはあきらかな差別である。



Q.植物同様に痛みを感じないのなら殺してもよいのならば、麻酔を打って動物を殺せばいいのでは?また、植物人間は殺してよいことになるのでは。

A.植物人間は脳死状態ではなく、回復する可能性を残している。だから、生きていれば出会うであろう何らかの機会までもを不可逆的に奪う事になる。同じように動物に麻酔を掛けて痛みを取り除いたとしても、もし生きていれば出会うであろう何らかの機会を不可逆的に奪う事になる。つまり、双方とも将来へのなんらかの利益を奪うという、苦痛を与える事になってしまうから動物に麻酔をかけて殺すことも、植物状態の人間を殺すことも誤りであると言うことになる。

また、倫理的ベジタリアンの論理は基本的に苦痛を感じることが出来ないものをむやみに殺しても良いのではなく、必要最低限に抑えるべきであると言える。




Q.人命や人権を最も重いものとする考えは差別でも悪でもありません。そうした基盤の上に人の道徳心というものが成り立っています。人と動物が対等でない以上、人に対する規範を動物に対してもそのままそっくり当てはめるのがそもそもおかしい。だからこそ菜食以外をを悪だと断定する事は単なる独善に過ぎないのでは?

A.差別が悪いとされる直接的理由は、被差別者に苦痛を与えるからで、人間が苦痛を善しとしない以上、苦痛を感じる能力のある人間や動物に苦痛を与えることは善しとされない。したがって同じ能力に関して同じ様に扱うことは差別ではないが、人間だけや、動物だけにその属性を理由として苦痛を与えることは明らかに差別である。したがって人と動物に対等に苦痛を感じる能力がある以上、一貫性を考えると動物や人間に苦痛を与えるべきでないとされる。また、人命や人権を最も重いものとすることで、動物を蔑んだり動物に苦痛を与えることは差別でしかなく明らかに誤りである。

また、差別を容認する道徳的規範というのは存在しないので、差別する基盤のある道徳心というのは誤りで、それこそ人権の濫用でしかない。したがって、食べる必然性もなく、味覚を楽しむだけで、動物に不可逆的な苦痛を与える肉食はそれ自体で誤りであり、それを正当化しようとして動物を差別して良いというのも誤りである。また、動物を差別して良いのかという問いに、動物だから差別して良いというのも、属性を理由にした差別を理由にしており、同語反復しているだけで答えになっていない。言い換えれば、種差別は悪くないのですかという問いに、種差別は悪く無いから種差別は悪くありませんと答える事と同じで同語反復しているだけで理由になっていないので誤りである。したがって、菜食以外を悪だとすることは独善でも何でもなく、肉食をしている人でも、恐らく容認しているであろう「非差別」「非苦痛」「一貫性を肯定する」という道徳的規範から自ら逸脱している行為が肉食であり、その行為が自ら論理破綻しているということである。



Q. 苦痛を与えて殺す事が悪だというなら、肉食や雑食の野生動物はどうなるのですか?そうした動物も多かれ少なかれ苦痛を与えて殺しその肉を食べますが、それを悪だなんて誰も思わないのでは?

A. 肉食動物に関しては人間と違い肉食以外を選択できない。したがって自己保存のためには肉食はしかたがないことだと言える。雑食動物や肉食動物、あるいはその他の動物に関しては、人間と違い、道徳的能力や理性的能力が人間の子供程度かそれ以下である。したがって他の動物を殺すことに対する道徳的価値判断が出来ないという事であり、他の動物を殺して食べたからといって、道徳的責任能力もないために責任を追求することは出来ない。

一方、人間は理性的能力や道徳的能力があり適切な価値判断が出来るだけではなく、人間は雑食動物なので肉食以外をを選択できる。したがって、動物がしても良い行為でも人間はしてはいけない行為が存在し、その一つが肉食ということである。また、道徳的判断能力のない動物が行っている行為が悪い行為であるなら、泥棒をしている人がいるからといって自分も泥棒して良いとはならないのと同じく、道徳的判断能力のある人間が悪い行為、つまり肉食をしても良いとはならない。あなたが動物と同様かそれ以下の理性的能力しか持ち合わせていないのでない限りは。




Q.農耕に適さない土地の遊牧民が必要最低限に動物を殺し食す事も悪ですか?

A.農耕に適さない土地の遊牧民がいると仮定して、他に選択肢がなく、自己保存のためにやむを得ず食べる場合はしかたがないということになるだろう。正当防衛や緊急避難などの違法性阻却事由になるような構図の緊急性や他に選択肢のない危機を乗り越えることまで否定するものではありません。




Q.ベジタリアンこそ人間を他の動物と比較して明らかに特別視しているように思える。
悪く言えば人間という種そのものを「差別」しているのでは?

A.差別というのは直接的な理由として被差別者に苦痛を与えるからダメなわけであり、差別して動物を殺す人間に対して道徳的におかしいから差別はやめようというのは、不正な行為に対する批難であるので差別に当たらない。その意見は泥棒を批難すると泥棒が苦痛に感じるから差別だと開き直っているようなものである。恐らくそれが差別に思えるのは「非苦痛」、「非差別」、「一貫性があることの肯定」という普遍的な規範のどれかを無視しているものと思われる。




Q.肉食は人類誕生から20万年以上脈々と続く行為であり、それが人の本能であり本質です。それを否定する事は人の歴史そのものを否定する事です。

A.仮に肉食が人類誕生からあったとしても、例えば、戦争が有史以来繰り返されてきたから正しいとはならないのと同じで、それが正しいとはらない。また、その当時は人間も動物なみの理性しかなかったかもしれないし、食料も生産、自給できていなかったかもしれない。そして、人類の歴史を否定するというのは、人類の歴史という事実認識を否定しているわけではないので、それは単に論理のすり替えで誤りである。



Q. そもそも人にとっては、人と他の動物の命は重さが違うと考えるのは自然な行為です。完全に平等だというのは綺麗事でしかありません。これを差別と同列に考えるからおかしなことになるのでは?

A.人間と動物は命の重さが違うと考えるのが自然な行為なら、例えば白人と黒人は命の重さが違うとか、日本人と韓国人は命の重さが違うとかいうことと同じ、属性を理由にした差別でしかない。完全に平等なことが綺麗事だとしても、それが差別してもよい理由にはならない。そして、この反論に動物を差別することは差別でないという反論は、「1+1」は幾つになりますかという問いに「1+1」ですと答えるようなもので同語反復しているだけで反論になっていない。また、自然だからという理由も、例えば、男性が女性より強いのは自然だから、男性は女性をレイプしてよいとが、いじめても良いとかにならないのと同じで、自然であろうがなかろうがその行為自体で判断されるべき事で、自然という理由は理由になっていない。



Q.「非苦痛、非差別」というのはあくまで人に対する規範であり、動物に対する普遍的な道徳的規範などではありません。

A.動物が人間同様に苦痛を感じる限り、苦痛を与えてはいけないという規範は人間と同様に動物に適用される。これを苦痛を感じる事という普遍的性質に基づいて何にでも通用するという意味で普遍的な道徳規範ということができる。そして人間だけにしか適用されないというのは、その時点で既に普遍的とはいえない。差別がダメな直接的理由は被差別者に苦痛を与えるからであり、動物も人間同様に苦痛を感じる能力があるかぎり、動物にも差別は適用されうる。

「女性を差別して苦しめるのは良いことだ」
「ユダヤ人を差別して苦しめるのは良いことだ」
「黒人を差別して苦しめるのは良いことだ」
「韓国人を差別して苦しめるのは良いことだ」
「日本人を差別して苦しめるのは良いことだ」
「幼児を差別して苦しめるのは良いことだ」
「動物を差別して苦しめるのは良いことだ」
「犬を差別して苦しめるのは良いことだ」
「猫を差別して苦しめるのは良いことだ」

上記は全て誤りだと言える。「差別は良いことでどんどんすべきである」とか、「苦しめることは良いことだからどんどん苦しめるべきだ」とするような規範はおそらく、差別主義者やサイコパスの人以外にとっては普遍的に誤りだといえるだろう。




Q. 例えば「肉食」は今のところ世界中の多くの地域で認められているものです。したがって肉食は悪いということにはなりません。むしろ「非苦痛、非差別、一貫性があることの肯定」というのがベジタリアンの勝手な定義による規範ではないでしょうか?

A. 非苦痛、非差別、一貫性があることの肯定と言うのが普遍的であるといえるのは、非苦痛は人間は苦痛を避けようとする以上、苦痛を善しとしていない。差別にしても黒人だから、女性だから、黄色人種だから、動物だからという、属性を理由にして殺すことや不利益を与えることは被差別者に苦痛を与えることであり、良い行為ではないとされている。また、一貫性がなければ議論にさえらないだろう。

「非苦痛、非差別、一貫性があることの肯定」を否定すれば、苦痛を与える乱暴者やサイコ的な異常者として非難されたり刑務所に入れられたり、差別すれば差別主義者として社会的に避難されたり、場合によっては刑務所に入れられるだろうし、一貫性がなく主張がコロコロ変われば、いい加減な人間として相手にされなくなったり非難されるだろう。

しかし「肉食」は今のところ世界中の多くの地域で認められているというのは事実であるが、認められているから正しいというわけでもなく、上記のような、誰もが認めざるをえないような普遍的といえる道徳的規範からすれば、それは正しいとは言えない。これは多くの人が、社会的に差別主義者を批難し、苦痛を与えたり殺したりする行為を非難することから考えて、それらの道徳的規範を認めておきながら、多くの人が動物を差別し殺し肉を食らうという矛盾した行動をとっている、あるいはそれを容認しているという事である。この議論はそこに気づきを与えているだけなのである。

必ずしも摂る必要のない肉を、美味しいから、習慣だからという利己的な僅かな喜びを優先せさせ、あるいは何も考えずに、あるいは開き直って、動物に多大な苦痛を与え、不可逆的な死を与えることや、それらを容認すること、これこそ動物の命を粗末に扱うことである。農水省によると日本人の肉食量は重量ベースで約7%位であり、たった7%の肉食を、他の穀物、芋・豆・種類に置き換えるだけで、ものすごい数の動物が恐怖や苦痛から救われ、不可逆的な死を免れる訳で、もっと言えば、人間が直接植物性食品を食べることに比べて3倍から11倍もの飼料としての植物を家畜に消費させる事がなくなれば、理論的には環境、人間における飢餓の問題も解決されるわけであり、これは苦痛を与えることを厭わず、差別主義である人間優先主義からも許容できるものであると思われる。



Q.人を殺してはいけない理由は、復讐されるからです。動物は復讐しないので殺して良いです。ビーガンは全人類に可能でないので普遍性がなく間違いです。


A. 人を殺してはいけない理由での殺人に対する復讐説は、復讐する人間が絶対にいる場合を前提にしているために普遍的とは言えず、復讐する人間がいない場合は人を殺しても良いとなるので、人を殺してはいけない理由にならなくなるために簡単に破綻する。また、すべての親族やすべての友人が複数するとも限らない。そして、動物が復讐しないというのもかなり怪しく、社会性を持つ動物に危害を与えた場合、その動物はもちろん周りの動物から攻撃される可能性は十分考えられるために復讐されない可能性はないといえるだろう。上記の事から復讐されるから人間を殺して良いという説は前提に明確な事実誤認があり自己破綻するために明らかに誤りである。

そしてその復讐を法や行政手法と捉え、また法で復讐が禁じられているために、現在ではそれが殺された親族や友人が復讐できない原因になっているとすれば、結局、法律で復讐ができないことになり、復讐によっての人を殺してはいけない理由が法律によって自己破綻し消滅してしまう。さらに法律により復讐が禁じられているのに法律での罰則を復讐としてとらえること自体が法理的矛盾をはらんでおり、ここでも自己破綻する。さらに道徳的議論に法的議論を混入させるなどおかしな様相を呈しており、全く論理的とは言い難い側面がある。

結局、ほんの少し考えただけでも、このように多数の矛盾を同時に包括しているために人を殺してはいけない理由での殺人に対する復讐珍説は破綻し成立しえないだろう。

「ビーガンは全人類に可能でないので普遍性がなく間違いです。」というのも同じことが雑食においても言えるだろう。「雑食や肉食は全人類に可能でないので普遍性がなく間違いです。」と。これは雑食や肉食も誤りであることを示している。念のために言えば両者とも同じ構図の議論である。これらは、結局、食べるものがなくなり餓死してしまうような論理は支持されえないだろう。

仮にアレルギー等の病的な体質的や遭難等で飢餓状態になった人、あるいは他の緊急避難的な理由等でビーガンが出来ない人ががいたとして、そういう人たちはビーガンを実行できないとしても、それ以外の人はビーガンは充分可能なわけで、全ての人がビーガンをしてはいけない理由にはなりえないし、ビーガン自体が誤りである理由にもなりえない。

そして、多分、そういったビーガンができない人はほとんどいないだろう。なぜなら日本人の場合肉食の量は約8%でアレルギー性の強い卵や牛乳を除いた植物性食品の割合は65%を超えるからである。ビーガンの食事の選択はこの65%から成り立っており、残りの35%をこの中から置換ええしている訳であるが、植物性食品を食べることが不可能で肉や卵、牛乳しか食べれないような人はこのビーガンが置換え可能としている65%の植物性食品をも食べれないということなのだろう。つまり、そういう人は植物性食品の置換えが不能なために雑食でも生きていけないだろう。肉、魚、牛乳などの動物性食品しか食べれないような人は、少なくとも私の回りには一人もいないし、見たことも聞いたこともない。もし雑食で65%植物性食品の置き換えが可能であるというのであれば、雑食と同レベルの65%の植物性食品でビーガンとしても置換え可能なはずである。

厳密に言えば、雑食者においてはそういったアレルギー反応のない植物は食べてもOKとなる可能性はあるが、それができるならビーガンにおいても同様にアレルギー反応のない植物は食べてもOKということが可能であるので、そのこと自体でビーガンを否定する理由にはなりえない。

以上の事から植物性食品にアレルギー等がありビーガンが不可能な人はかなり少ないと思われるし、もちろん遭難して飢餓で動物や人間を食べなければ生きていけなかった人も同様である。それらの理由でビーガンが誤りとはならないし、新たな不正な議論を含んでいる。つまり、これらのことを少し考えるとわかることであるが、こういった議論での多くは、ごく少数の事を全てのように語る詭弁が使われており、同時に三段論法の誤りによくあるような論理のすり替えも、結果的に行われており、議論として成立しないことに気づくべきだろう。












以上。

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