今年の夏は、新型コロナウィルスの影響で、東京オリンピックを始めとして、様々な催し物がなくなってしまいました。例年は、テレビニュースで、夏の甲子園、地域の盆踊り大会、お盆の帰省ラッシュなどを見ていると、幼年時代の夏の光景が次々と浮かんできていて、これは“おじいちゃん先生特有の性癖”だと思っていました。

 

 2週間前、小説家志望のH君が、面接の中で面白い話をしてくれました。

 

「僕にとっては夏がすべてなんです。夏以外の季節はあってもなくてもどうでもいいんです。」と唐突に口を開いた。

 

<なにそれ、どういうこと?>

 

「いわゆる、“感傷マゾ”というやつですよ。」

 

<“感傷マゾ”というのは、どういう意味?>

 

「家に引きこもっていて、ありもしない夏の思い出に浸るんです。夏休みに、母の実家で過ごした一か月の間に、近所に住むロン毛の少女と浴衣を着て花火大会に行ったとか。林間学校で新任の美人先生に、膝のすり傷の手当てをしてもらったこととか。ありもしない記憶を捏造して楽しむんです。」

 

<空想みたいなもんだね。でも、楽しそうでいいんじゃない。私も、夏になると、井上陽水の少年時代を聴きながら、あったかなかったかわからない記憶をたどって、感傷的になることがあるけどねえ。たしかに、春や秋冬にはそういうことはあまりないよね。>

「でも、先生はやるべきことはやってるからそれでいいけど、僕は何もやってなくて、1日中ベットでゴロゴロしてしてるのだから、バカですよ。話にも何にもなりませんよ。」

 

<でもそういうのが小説を書くネタにならないの?>

 

「そんな小説はすでに山ほどあって、くだらない世界ですよ。」

 

<そうかな、私も、君が言うような「ロン毛の少女と・・・」みたいな羨ましい経験はないから、おなじことやってるかもしれないね。誰でもみんな、そんな経験をすることができないから、小説や映画やテレビドラマを観て、羨ましかったり、感動したり、空想したりするんぢゃないの?。身近にそんなことがゴロゴロあったら、小説も映画も必要なくなるかもしれないよ。>

 

「いや、僕が言いたいのはそういうことじゃないんです。・・・」と話はあまりかみ合わなかった(おじいちゃん先生の、“感傷マゾ”に対する理解がなかったから?)。

 

   早速家に帰って、“感傷マゾ”について調べてみると、

 

 『感傷マゾとは、存在しなかった青春への祈りです』

 青春もののアニメや漫画を過剰摂取した結果、夏休みは田舎の祖母の家で一ヶ月過ごして隣の家に住む麦わら帽子黒髪ロングの白ワンピース少女と仲良くなるとか、浴衣姿の女の子と夏祭りや花火大会に行くとか、感傷的な気分に浸れるノスタルジックな青春のイメージが頭の中に固まってしまう。

 そんなアニメみたいな青春は自分にはない。エアコンで室温が28℃に保たれた自室の床に寝転がって、スマホでtwitterやyou tubeを見ていたら、何の思い出も作れずに終わっていた現実の自分の青春はすごく惨めで、自己嫌悪してしまう。そしていつの間にか、その自己嫌悪自体がむしろ気持ちよくなってしまい、感傷と自己嫌悪をゾンビのように求め続ける性癖が、感傷マゾです・・・と書いてあった。

 

 いろいろ調べてみたところ、感傷マゾを扱った小説やアニメがたくさんあって、おじいちゃん先生が、そういうものだと知らないだけでした。でも、“感傷マゾ”なる心性は、すべての人の心の奥底にあるもので(アニメなどを過剰摂取しなくとも)、年をとっても失われることがないものだと思います(私の体験では)。また、『そんなアニメみたいな青春は自分にはない』というのも、ほとんどの人に共通することだと思います。

 “感傷マゾ”にハマってしまうのは、自分が経験したことがないことを、「誰でも経験している、誰でも経験できるもの」と錯覚してしまうのではないか。そして、それらの経験が得られないと自己嫌悪に陥ってしまう。それにハマらないためには、<ないものはない。経験できないことは経験できない。そんな経験はあってもなくても良い。そういう経験があること自体に人間的な価値があるわけではない>と受けとめて、“感傷マゾ”を扱った小説やアニメを、ほどほどに楽しめばいいんです。そういう人たちが世の中にたくさんいるからこそ、芸術や娯楽が存在するんです。現実には体験できないけれど、自分の潜在意識にある感傷(感情)の世界として、自己嫌悪に陥ることなく、ひそかに、ほどほどに、一人静かに楽しめればいいんです。というのが“おじいちゃん先生の見解”でした。

 

 それでは、おじいちゃん先生の“感傷マゾ”的世界の橋渡しをいつもしてくれている、井上陽水の“少年時代”を貼り付けておきますので、皆さんもどうぞお聴きください。