つい先日bot中の人は、高知県の足摺岬に出向いていました。ここは安吾さんにとって、人生最後の取材旅行を行った土地です。「安吾新日本風土記<高知県の巻>」を執筆するために、昭和30年2月10日から15日までの日程で、高知の取材旅行をされていました。しかし(過ぎてしまったいまとなっては、もちろん?)、この取材旅行の成果は、同月17日早朝、安吾さんご本人の急逝のために、一語も書かれることがありませんでした。
しかしながら、当時、取材にご同行されてた、竹内一郎さんが後日書かれた「回想書かれなかった安吾風土記<高知県の巻>(河出文庫「安吾新日本風土記」所収)」を読むと、その旅のご様子をある程度うかがい知ることができます。
 
高知について全く不案内であるのに、坂口さんは私に「今度はお膳立てを絶対にしないでほしいネ。それに旅行プランも行くさきざきで、明日のことは前の晩にきめればいい」
 
たった5日間の旅行でしかないのに、ずいぶんと方向性のない手法をとられたものであります。単なる物見遊山であれば、それで楽しいかもしれませんが、いやしくも原稿料を稼ぐための取材旅行ですよ。それはやはり厳しいのではないかなと思います。竹内さんも「そんなことで十分な取材ができるとは私には信じられなかった」と本文で述懐されています。にもかかわらず、それを現場でグイグイ押し通してしまえたのは、安吾さんの膨大なご実績と、カリスマ性(死語?)のなせる技だったのでしょうか。
もっとも、このように無計画な展開になってしまったのも相応の理由があったようで、このことは安吾さんご自身が以下のとおりおっしゃっています。
 
「今度の土佐の場合、土佐人が、特別にお国自慢が強いのが気にくわなかった。第一、郷土紹介のパンフレットを土佐ほどたくさん出しているところは他所にはない。ところが、このお国自慢というものは、一般的にいってずいぶんいい加減なものが多いものだ。それは他所のところを知らないで、自分の所だけが特別に変わったものをもっていると錯覚するからだ。これが島国根性で、日本人には誰にでもある欠点だが、土佐の人は特にはなはだしい。そういう人に案内してもらっても無駄だ。土佐は俺の知らない土地だが、他所を知っているから、自分一人でも本当のことがつかめる」
 
すごい辛口なご当地評ですね。まあ、それでも安吾さんが発すると、これが答えなんだ、ともいうべく、ごもっともなインパクトでことばが響いてきますね。
なお、安吾さんご一行は、先に龍河洞と室戸岬に立ち寄られてたようなのですが、・・・bot中の人としては、残念ながら、その、高知県東側には出向くヒマがなくて、あっさりスキップしてしまいました。凡夫の週末旅行ではこういう時間的制約はどうしようもありません。
というわけで、安吾さんの足跡をたどるべく、今回もっぱら出向いてみたのは、県西部の足摺岬の方面です。高知市から西へ西へとたどるその海岸線は長いです。いまでこそ、くろしお鉄道か、途中までは高速道路経由で、わりとすんなりたどり着くこともできますが、昭和30年当時は、おそらく細長い陸路をたどるしかなくて、なかなかたいへんな移動だったことが、竹内さんの本文からもうかがえます。
 
朝8時に高知を出発したというのに、その日の宿泊地清水市にたどりついたのは夜の9時に近かった。~(略)~峠の高さこそ低いが、山襞の数が多く幅も狭い。そして乗客である私たちは、特に選んでもらった腕利き運転手に全幅の信頼を寄せながらも、つい自分が運転している錯覚に陥るのだった。時々坂口さんの口からは、うなるような歎息が、ハンドルを切る運転手の手さばきの調子に合いながら漏れるのだった。途中中村の町で二時間ほど車から降りたが、私たちは途中道路工事のためにかなりの迂回をさせられ、正味十時間のドライブでくたくたになって清水にたどりついたのである。
 
たしかにたいへんです。それに加えて、このときの安吾さんは、体調がどうもあまり良くなかったようです。
 
いまから考えると、前から風邪気味だった坂口さんは、この晩相当程度に疲れていたのではなかったろうか。当たり散らす元気すらなかったほどに。
 
あああ、17日にいきなりご急逝されてしまった件もあるのかもしれませんが、やはりハードな移動で、心身ともどもクタクタだったのかもしれません。ひょっとしたらこの行程が、安吾さんの寿命を、予想以上に削ってしまったのかもしれませんね(・・・かといって、もちろん誰のせい、ということもできませんが)。
 
それに途中の中村は、坂口さんの期待が大きかったにも関わらず、かつての小京都の面影は、戦後の南海大地震ですっかり失われていて、収穫といえば幸徳秋水の墓に詣でたくらいのものだった。
この秋水のお墓ですが、ありました。これですね。四万十市の町のなかの検索局裏の墓地にたしかにありました。いまでは地元の「幸徳秋水を顕彰する会」によって、管理されているようです。
安吾さんはどういう思いでこの墓石をご覧になられたのでしょうね。幸徳秋水といえば、大逆事件です。明治後半に、天皇権威が強化され、国内の言論統制が、ますますきつく引き締められて、不本意ながらその犠牲となってしまった秋水さんのお墓を、「堕落論」の安吾さんが詣でたということ。おそらく安吾さんとしても、思いもよらない文案が湧きあがった瞬間ではなかったかと思います。
それにしても、当時は逆賊として葬られたのかもしれないのに、墓石としては立派なものですね。何よりも「幸徳秋水」としっかりと太く氏名が刻まれているのには、感心です。当時から地元の同志による厚い尊敬の念があったのでは、と感じたりしました。
墓所を見られた後は、足摺岬の先端を目指して、ふたたび自動車に乗り、ひたすら南へ南へと進まれたようです。
途中で大文字焼をやる山も見えました。もしかしたら、安吾さんも自動車の窓からふと見やっていた可能性もあります。「ここだけ申し訳程度に京都っぽいヤァ」とご失笑されていたかもしれません。
 
本場の鰹節づくりを見ることができた。ただし2月という月は鰹のとれない月であって、この日私たちが見たのは花鰹の材料になるメジカ節であったが、工程はまったくおなじだそうである。坂口さんは、この人としては珍しいくらい時間をかけて説明に耳をかたむけていた。そこで働く待望の幡多美人も写真に撮ることができた。
 
旅の後半ぎりぎりになってきてこの土佐清水でようやく風土記のネタを、発掘できたご様子がうかがえます。
 
また足摺岬へ行く途中の松尾というところには周囲が十米もある榕樹の大木があったが、その前に立った坂口さんはその形の奇怪さを子供のようにはしゃいで感心していた。
大木ありました。”松尾のアコウ”と案内板に書かれていますね。複雑にどこまでも張り巡らされたその枝っぷりのもの凄さには「子供のように」はしゃいでしまう気持ちも、同感できました。関東や新潟ではまず見ることのない、奇怪で、エネルギッシュな樹影でございます。
 
そしてさらにまた足摺岬の展望台でなま暖い潮風に吹かれ、岬の一部を蔽う椿林を歩きながら、土地の伝説に耳を傾ける坂口さんの眼は生々と輝いていた。今さらいっても無駄なことであるが、この日の材料は<安吾新日本風土記高知県の巻>のなかで、きっとかなりのスペースをさく部分になるはずであった。
かなりの手応えをつかんでいたのではと察せられます。その「土地の伝説」とはなんだったのか? 
金剛福寺の補陀洛渡海の件も含んでいたのでしょうか? だとすればこの境内もいろいろ歩かれたのかもしれませんね。
南国ならではの風土記ネタを、この岬の先端でけっこうかき集められたのかなと思います。
 
・・・というわけで、bot中の人としては、ただひたすら安吾さんの足跡を「たどってみた」だけの小旅行でした。とりあえず、高知という海岸線の長い土地で移動することのたいへんさだけは身体全身でよくわかりました。平成の整った道路上を黙々と自動車を運転するだけでもヘトヘトだったのに、安吾さんの時代ならものすごい荒行になっていたのかと思います。
やっぱり南のはしっこに来たんだもの。水平線の他にはなにも見えない、南の海の彼方を見やるときに感じる、明るい虚無感が、たまらなくいいですねえ。こうして海を眺めることにして、bot中の人も足摺岬をあとにしました。
またそのうち適当にゆかりの土地に出向きます。では。