この旅で

とても景色のよい場所とかにくると よく聴いていた曲があります。


【盲者の旅路】  という曲

  (song by suzumoku )



http://www.youtube.com/user/nsm92765#p/a/u/0/ZdBs1OTLy4c







誰かにとって感動的な景色でも

それは別の人にとっては全く何も感じない景色かもしれない



1つの出会いは 

多くの出会いの1つでも   

時がたつと

より大きな意味をもつものになっているかもしれない




時には 

ダイヤモンドの原石みたいに

価値のなさそうに見えるものが

磨けば磨くほど光を放つものもあるのかもしれない





落ちている石はみんなの足元にあって

きれいな景色は誰でも見ることができる



どこにいっても

どこにもいかなくても


【素敵だ】


と思えばそれは素敵な景色になる





それは誰にでも平等に広がるもの

でも それを磨く機会は  

その人の環境・心情・感性によって変わるのかも




いろんなものを見るために

いろんな人に出会うために


何かを見つけるために

新しい物を発見するために


自分の考えを知るために


旅に出た



でもそこに必ずしも答えがあるとは限らなくて



常に模索の連続なのかもしれない



その模索の中で  なにかヒントを見つけることもあれば

答えに導かれるなにかが開けるかもしれない





他人に言われたことが答えじゃなく

それが答えかどうかを決めるのも自分自身




私に今必要なのは

インプットされた数々のものの中を模索して

磨き上げる事なのかもしれない



今まで生きてきた人生の経験と知識を混ぜながら



そしたら ちょっとは 何か 光ってくるかな



冒頭にあげた曲。

全体的に好きなのだけど、 私が一番響く部分。






【 辿り着いた景色はどうだい   

  それはあなたが描くものだろう

  

  宝物は役にたつかい

  それはあなたが磨くものだろう

  

  辿り着いた景色はそうさ

  それは誰にでも見えるものなのさ

  

  宝物は役に立つだろ

  それは誰にでも使えるものなのさ 】










当たり前のこと  

自分ではそう思っていても 他人にはそうじゃないこともある。


誰かの気分を害してしまったり

逆に予想以上に喜んでくれたり。




ということで、今回はジェントルマンの国イギリスで目にしたことと、

先日スペインで出会ったイギリス人(スコットランド人)の話。




イギリスで地下鉄に乗っていた時のこと。


目の前の席には、いかにもジェントルマン!という格好のおじいさんが座っている。

白く長い整えられたひげ。

ハット。

杖。



わ~、絵にかいたようなおじいさんだ~なんて思ってました。


ちょうどおじいさんの目の前には高校生位の女の子が立っておしゃべりをしている。



と、その時。



おじいさんが、女の子の1人に向かって


「ここの席にすわりませんか?」



と声をかけたのです。



???? ?!?!?!?!?!?



なんと!!!



おじいさんが女の子に席を譲る????



日本じゃあ、お年寄りにすら席を譲らない人がたくさんいるのに。

(そして、私もめっちゃ疲れてる時は思い当たる節が。。。。 きっとおじちゃんおばあちゃんは立ってるだけでも疲れるだろうに(><) )



ここでは、年齢よりも 女性が優先なんだなあ~ 

と、 レディーファーストの極みを目撃したのでした。



きっと、この国で育った人は、

女の子が重い荷物を持っていたら持ってあげて、

ドアを開けてくれたり、道を譲ってくれたり。 


そんな行動は当たり前の事として育てられているから自然にできるんでしょう。

そして、そうされた側も自然に対応をする。



さきの女の子たちはもちろん 「大丈夫よ。ありがとう」 なんていって返事してたけど。



そして、イギリスから旅をスタートした私と友達は、それがスタンダードになってしまったため、

次の国フランスでは逆にフランスのイメージが下がっていくのでした^^;


電車に我先に・・・と乗ろうとする人。

大きい荷物を棚に上げようとしても、手伝ってくれることの方が珍しい。

汚れた駅のホーム。 地下鉄の独特なにおい。


すべてが、「これがイギリスだったら・・・・・」 なんてのが口癖になってました。




イギリスが得に・・・というイメージだったけど、

でも全体的にヨーロッパの国々ではレディーファーストの文化があるので、

日本ではあまりそういう習慣に触れない分、そういう行動をされるとそれだけでキャー♡ となるわけです。



何度もいうけど、こっちの人にとっては普通のこと。

とはいえ、日本女子にとってはなかなか嬉しいものです☆



そして、逆の話。




先日、スペインのアンダルシア地方で(あ、ブログはマドリードあたりで停滞していますが^^;)出会った

イギリスのスコットランド地方から来た男の子の話。


彼らは友達同士でヒッチハイクをしながら旅をしているらしい。


そのうちの1人と仲良くなりました。

なかなかフレンドリーで、共同のリビングで音楽をかけていて、

ソファーでネットをしていた私や他の人にに うるさくない?邪魔してない? なんかかけてほしい曲ある?

なんて周りにきにかけつつ・・・  なんていう男の子。



その日の午後、ホステルに戻ってレセプションの人と話していると、

彼と遭遇。


妙にテンションが高く、どうやらテラスで飲んでいたらしい。


そしてなぜか部屋に来て、部屋の設備や物に興味津津。

そしてドイツから来たルームメイトの女の子達も巻き込み

ひたすら小一時間話し続ける。


かなり早口なのと、おそらくスコットランドなまりの英語ともあって、私はなかなか理解できなかったけど:‐P


「男の子もこんなに話せるものなのね」 なんて彼が去った後

ぽつりとドイツ人の子がいう。



それほどすさまじかった。笑



嵐が過ぎ去った感じ。




で、夕方またキッチンで遭遇。


この日は1日飲んでいたらしく、子供みたいな絡み方をしてくる。


まー、ちょっとしつこかったけど、

楽しいっちゃ楽しいし、笑えたからいいのだけど。 位。


結局、外出する為待っていた彼の友達に呼ばれるまでそれは続く。





そして、翌日。




なんだか様子がおかしい。



と、思ったら、すごく深刻な顔をして、


「本当に申し訳ない。 昨日は酔ってて・・・・

 なんて僕は君に失礼なことをしてしまったんだ・・・」


と頭を今にも抱え込むかのような、本当に重い空気。



朝起きた時に、昨日の酔っ払い様を友達から聞いたらしい。


にしても、良いか悪いかでいえば、良い方の酔い方(人の気分を害するような絡み方ではない)し、

あのレベルなら日本じゃ当たり前というか可愛いものである。


 (もしくは友達が誇張して伝えたのかもしれないけど。)



そして、日本じゃ謝ることなんてないし、(そもそも別に何かひどいことをされたわけではない)

謝ったとしても、そこまですごくは謝らない。



日本じゃたいしたことない事でも、

彼らにとってはとても失礼なことだったり、やってはいけないことだったのかもしれない。



その後も何度も


「本当にごめんなさい」 と謝られひどく落ち込んでいた模様。








他にも例はあるのだけれど、この2つの話からも 

どのように育てられたか、どういう環境で育ったかによってこんなに意識は変わるものなんだな~って思ったのでした。




日本で育ったからこそ、普通以上にレディーファーストが嬉しかったりするわけだし、

スコットランドのおばあちゃんは、

混みあった道路で自転車や歩行者が乱暴な運転をする状況や、

道路に煙草の吸殻が落ちているという状況に腹をたてていたり。。。。




そういった価値基準の高い国でそだったからこそ、

当たり前と思うことがあたりまえじゃない国に行くとストレスに感じることもあるわけで。



ヨーロッパに生まれていれば・・・ なんて想像もしたことあったけど、

もしそうだとしたら、そこまで なんていい文化なの~★ なんて思わなかったわけだし。




どこで生まれ育つのがいいのか・・・・

なんて結局わかんないや。




こんな事からも、意識の違いや価値観の違いなんていうものに触れたのでした。






仕事をやめた


私を縛り付けていた時間から解放された

朝の満員電車から解放された

いろんなルールや責任から解放された




日本を離れた


だれも私のことを知らない場所

飾ることも

自分を演じる必要もない場所

その時の私を そのまま受け入れてくれる人たち




体格のいい人がいっぱいいる


そんななか 1キロ太った痩せたとか 

二の腕のぷるんぷるんがとか


そんな細かい所ばかり気にかけてた事から解放された





空が青い 

風が気持ち良い

最高の景色

太陽は元気の源


そんな中にいたら  

日焼けがどーのこーのとか

紫外線が・・・ とか、

日本にいたころ

神経質な程に気にしていた事もあった。



そんなのどうでもいい気持になる。


ただ、その空気を味わいたくなる。


いやな気持も風が流してくれる

暗い冷めきった感情も夕日が温めてくれる

小さなことでイライラしていた気持は

壮大な景色がかき消してくれる





カメラが壊れた




きれいな景色・面白いものをみたら写真をとらなきゃ 

とおもう概念から解放された


今は純粋に景色を見ている






i POD の曲が消えた




聞くたびにリンクしていた日本にいた頃の思い出から解放された

代わりに今まで入れれなかった曲が入った

そして 旅の音楽 として 日に日に濃く私の記憶に刻まれていく




時間の不自由から解放され

時間の自由を手に入れた



時間にリミットがなくなったと同時に

お金にリミットができた



不自由の中の自由を楽しんでいた生活から

自由の中にある不自由を感じる生活になった





あって当たり前のもの・必要不可欠だと思っていたものがいざ無くなると

意外にも不便ではなく 解放を感じることもあるのだ。




そう

ここは誰にも見つけられない自分だけの解放区。


でも、誰もが見つけることのできるもの。




私はたまたま旅で見つけた。



でも

日常でも 自分で自分の解放区を作ることは

以外にも簡単なのかもしれない。




そして、その解放区は日常なしでは作ることはできない。

私の解放区も 日本で拘束された生活があったからこそ存在したもの。





非日常は日常から生まれ

現実逃避は現実があるからかなうものなのだ。




そう思うと

涙を流したあのころも

自分がなくなってしまいそうな感覚につつまれたあのころも

いろんなものに潰されてしまいそうだったあのころも

少しは愛おしく感じるようになった


・・・・・気がする。