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これから書くのは、あくまで私が感じ、思ったことです。間違っている可能性は充分にあります。
それを踏まえた上で、間違っていても「何バカなこと言ってんだこいつ」とスルーしていただける方は、お目を通して頂ければ嬉しいです。
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色々とタイミングが悪くて、結局、上映終了間際になってしまいましたが、先日ようやく観に行くことができました。
友人のひとりが私よりも前に観に行っていて、ネタバレを伏せて教えてくれたのは、「観る人を選ぶ映画」であるということ。
もちろん、そんなことは、大なり小なりどんなものにでも言えることだとは思うのですけど。
その時点で私は、先述したとおりまだ観ていなかったのですが、公式サイトの画像や動画を観て、恐らく駄目な人はここで駄目だろうな、とは感じていました(実際、画像だけで拒絶反応を起こした人もいたそうですし)。
感性は人それぞれですから、確実にこうだ、と言えることはないのですけれど、この作品に関しては、決して「爽やかな」映画ではないだろうと予想していました。
沖縄と聞いて、何を思い浮かべるか。
俗な言い方をすれば『リゾート地』ですよね。
日常を離れて、バカンスを楽しむ南の島。
『日常』を離れる。
つまり、『非日常』に身を置く。
少し脱線しますけど、沖縄って、本当に時間の流れが違うんですよ、本土と。
速いとか、遅いとか、そういう具体的な速度ではなくて、それこそ『うちなー時間』としか言えないような。
あくまで感覚的なものなんですけどね。
『日常』――『ケ』――から『非日常』――『ハレ』――へ。
表現として適切かどうかは分かりませんが、本土という『ケ』に住む人間にとっての『ハレ』の土地柄である沖縄。
そこに身を置くことによって、主人公たちのリアル、言い換えれば『ケ』の問題をより浮き彫りにして、観る側に強烈に押し付けてくる。
更に映像ワークが、『ハレ』と『ケ』双方の過去と現在をシームレスにつないでいくから、境界線は曖昧になる。
より『ハレ』に惹きつけられる何かを抱えている人にとっては、本能的に目を反らしたくなる作品かも知れない。
そう思って観に行ったら――その通りでした、少なくとも、私にとっては。
非日常の空間の中に置かれることによって、日常の理不尽さややるせなさがより強く訴えかけて来るから、確かに拒絶反応を示す人は多いだろうなと改めて実感しました。身も蓋もない言い方をすれば、厨二病を拗らせた人が作った作品と言われればそれまでのこと。繰り返しになりますが、そういう意味で観る人を選ぶ作品ではありました。
私も少なからず綺麗じゃないモノを抱えていますから、最初は身構えていたのですが、ふっとある瞬間、これはつまるところ、誰しもが日常に抱えているモノで、そのケースパターンとして『僕』が選ばれた、そういうことなんだな、と納得したんです。
どうしようもなく苦しくて、圧されて、潰されて、ぺしゃんこになって、『僕』という存在が非日常の中に溶けてなくなってしまいそうな時、その抱えている苦しさをいかに昇華させて、日常に戻って行くか。
綺麗な感情も、綺麗じゃない感情も、心の中の光の当たる部分だったり、闇に閉ざされた部分だったり、それらを全部ひっくるめて呑みこんで初めて、人は『ハレ』の空間から抜け出すことができる。
そして、『僕』にとってのそれは、「『お話』を造る」ことだった。
そう思ったら、不思議ととてもすっきりしたんですよね。
決して綺麗なだけの映画ではないけれど、でもすべてを呑み込んでも、結局残った感覚は、とても綺麗なものでしたから。
『僕』の最後の台詞は、私は結局分かりませんでした。あれこれと想像をめぐらすことはできますけれど、何を入れてもしっくり来ない。
けれどもし、私にとっての『解』は何かと訊かれたら、迷わずこう答えます。
"Sea is always open."
エンドロールが終わったその時に心に浮かんだ言葉が、それぞれにとっての『解』なのだと思います。
追記。
もともと黒羽麻璃央さんが主演ということで観に行こうと思ったんですよね(^^;)
我ながら不純な動機だ。
テレビドラマではCMが入るから、そこで自分も中休みに入って思考がリセットされてしまうんですが、こうして映画でノンストップで観ると、黒羽さん、随分攻めてるなぁと思いました。今まで観て来たどんな役とも違う。強いて挙げれば、『恐るべき子供たち』のジェラールが近いかな?声の表情がぐんと増しているように感じました。
あ、あといきなりの流司くん、あれはびっくりして一瞬我に返った。それだけか!と(^^;)
今宵はここまでに致しとうございます。<知ってる人いないよなぁ。。。


