1. 病院が「日常」だった幼少期
物心ついた時から、私の世界は白く無機質な天井——病院のベッドから始まりました。
入退院と通院を繰り返す日々。小学校高学年でようやく症状は落ち着きを見せましたが、絶え間ない頭痛と、ふと意識が遠のく感覚だけは、ずっと私の影のように寄り添い続けました。
それでも、身体を動かすことだけは得意でした。水泳と陸上。長距離ランナーとして駆け抜けた高校時代。しかし、過酷な練習に私の身体は悲鳴を上げました。
2. 10度の手術と、宣告された「限界」
膝の半月板、靭帯の断裂。骨粗鬆症による疲労骨折。
膝の手術を重ねること9回。ようやく終わったと思った時、医師から告げられたのは絶望的な言葉でした。
「日本では、法律の規制でこれ以上治せません」
提示された選択肢は3つ。足を切り落とすか、鉄の棒を入れるか、あるいは人の靭帯移植を待つための応急処置か。当時22歳。遊びたい盛りの私は、見た目が変わらないという理由だけで、10回目の手術で「応急処置」を選びました。
3. 叔父が漏らした、隠され続けた「真相」
ある日、親戚の叔父とお酒を飲んでいた時のことです。自分の「生きづらさ」を吐露する私に、叔父は重い口を開きました。
「お前の身体には、金がかかっているんだ。あの時の事故のせいだ」
私がまだ幼い頃。ショッピングセンターで大型テレビが私の頭上に落下し、緊急搬送されたというのです。
意識不明の重体。各地から名医が集められ、総力戦で私の命は繋ぎ止められました。しかし、当時の医師はこう言ったそうです。「同じ状況で生き延びた例はない。この先、どんな後遺症が出るか予測できない」
この事実は、大人たちの間でずっと隠され続けてきました。
4. 父の沈黙と、母が語った「パチンコ」
私は父に確認しました。しかし父は「覚えていない」と不機嫌になり、口を閉ざしました。
後に母が教えてくれた真相は、残酷なものでした。
あの日、父は私を一人テレビの前に残し、自分は隣のパチンコに出掛けていた。
厳格だった祖父が母に頭を下げたのは、後にも先にもその時一度きりだったそうです。
父にとって、その過去は誰にも掘り起こされたくない、罪悪感そのものだったのでしょう。
搬送先の病院に記録は一切残っていませんでした。
5. 30歳を超え、本格化する「崩壊」
20代後半から、身体は急激に蝕まれ始めました。死を考えるほどに拍車がかかる生きづらさ。30歳を過ぎる頃には、原因不明の脳障害や血管障害が本格的に牙を剥きました。
現在、私に突きつけられている主な診断名(細かい病気は多々ありますが)は以下の通りです。
• 20代での2度脳梗塞で脳機能の著しい低下
• 網膜静脈閉塞症(出血は止まっていますが疲労による一時的な視力消失)
• 頚椎脊柱管狭窄症・側弯症(頻発に起こる手足の麻痺)
• てんかん
• 動静脈瘻(血管壁に穴が開く難治性の症状)
• 脾臓脾腫(激痛を伴う臓器の圧迫)
• 胃癌・胃潰瘍、十二指腸潰瘍(食道から十二指腸にかけての亀裂)
• 左耳の言語聞き取り不能
• 坐薬の過剰使用によるクローン病様の症状
• 手指の絶え間ない痙攣
総合病院、市民病院、県病院、大学病院に行っても「うちでは手に負えない」と追い返される事がよくあるほどの私のCTやMRI。付き添ってくれた友人は、その光景に言葉を失います。
通院していても最初は治療ですが、次第に対処療法に変わって行きます。
真相を知りたい、ただそれだけのために
私は今、かつての父の年齢を超えました。息抜きが必要なことも、遊びたい気持ちも理解できます。父を責めたいのではありません。ただ、私は自分の身体に何が起きたのか、その「真実」を知りたいだけなのです。
30歳を過ぎて、私は「身体障害者手帳」と「精神障害者手帳」の2冊を手にしました。
この手帳は、私が生き抜いてきた証であり、同時に、いつ意識を失うかわからない私が「生き延びるための武器」でもあります。
しかし今でも発作は頻繁に起こって意識をなくしています。