個人の幸福と利益の追求、社会の利益と国家の政策、

個人が利益を追求するのは少しでも幸福になりたいからだと思います。

国家が政策を出すのは社会の利益になると思うからです。

しかし、利益の追求や国家の政策には一つの大きな問題が有ると思います。

それは、他人の利益や他国の政策にたいするものです。

個人の利益の追求や国家政策は多々にして他の利益を無視しがちです。

全ての人々が幸せになるために、ここでそれを考えてみましょう。


この間のテレビで、日本にいる外国人の方々が中心になって、討論する番組がありました。

そこで、米英によるイラク空爆についてに話しあわれたのです。

それぞれの国の思想を反映した、非常に興味ある議論がありました。

互いに筋が通っており、地域における価値観と思考の違いが明確になっていたのを覚えています。


欧米諸国の学生達が口をそろえて

「イラクにおけるフセイン政権は、大量破壊兵器などの開発を優先させ

世界平和に対し深刻な懸念を抱かせている。」

アラブ諸国の学生達は

「アラブの事はアラブで処理する、なぜ遠いアメリカCギリスが

何の権限でアラブの内政に介入し武力脅威を拡大させるのか。」


この問題の是非については他に場を移すとして、

結論がなく妥協性もない議論が繰り返されました。


その多くの議論の中で、今私の心に残っているのは一人の外国人学生の一つの言葉です。

その人はイラク人で、明朗な日本語を話す快活な好青年でした。

イラクの軍事施設の破壊について話が及ぶや、穏やかな口調で話していたその学生は

表情を変えて叫びました。


「あの爆撃で壊されたのは、 だれが何を言っても、私はこれを考えずにはいられません。

私の学校や、近所の病院、幼い頃から見慣れた商店街だ!

あの爆撃で死んだのは、

善良な市民、先生や医師、そしてお店の店長だった私の叔父だ!!

兵器工場があるかもしれないという理由で!

一般市民の建物が、疑わしきは破壊する、の排除論で

どんどん壊されていった。

私の親友も死んだ!私の家族も死んだ!

みんな軍事や大統領とは何の関係もない

ふつうの市民だ!!」


国家のレベルで物事を考えると、個人の幸福が見捨てられがちです。

そもそも国家や社会は、個人の幸せを保証し

それを安定化し、将来への幸福の追求を助けるものでなくてはいけません。

人の幸福を破壊し、生命を軽視し他人の価値観を否定するような社会では、

世界全ての人々の幸福を望む事は出来ません。


人を殺すのはいけない事だと教える社会が人を殺してはいけない。

人を騙すのはいけない事だと教える社会が人を騙してはいけない。

人の不幸を望むのはいけない事だと教える社会が人を不幸にしてはならない。

これは社会の基本だと思います。

あの学生の言葉を忘れずにいるべきだと思います。



一方、あの学生の言葉は国家通貨経済にも言いかえる事も出来ます。

「あの投機家による暴落で壊されたのは、

私の家庭や近所の病院、幼い頃から見慣れた商店街だ!

あの暴落で生活不安に陥ったのは、

善良な市民、先生や医師、そしてお店の店長だった私の叔父だ!!

金融不安が起こるかもしれないという理由で!

一般市民の通貨が、自分の利益を追求する、の市場主義で

どんどん壊されていった、

私の親友も失業した!私の家族も崩壊した!

みんな政府や金融とは何の関係もない

ふつうの市民だ!!」


ちょっと、こじ付けに近い所があるのは私も認める所です。

しかし、軍事においても経済においても形は大きく異なりますが

みんなの幸福に対して大きく双方影響を与えるという点では同じです。

個人の利益の追求が他人の不幸につながるなら考え直すべきです。

例えば、殺し・盗みもそうですし、市場や産業を崩壊させるのもそうです。

個人の幸せの追求が他人の幸福につながり、他人の幸福の追求が自分の幸福に

つながるような社会・経済体制を21世紀に創っていくべきでしょう。


今の世界、核兵器に匹敵する力を持つものが5つ有ると思います。

それは、金融投機、情報メディア、科学技術、自然資源です。

これらを正しい方向で使い、生産性を高めると同時に人間の感性を高め

皆が生きる事と幸福について真剣に考え、

それぞれが理解しあって生きていけるような環境を整える、

それこそが私たちが21世紀以降の人々に対して

果すべき責任ではないのでしょうか。



私はあの学生の言葉を忘れません。

なぜなら、


自分がこれからやっていく事への、戒めとするために…

そして、人間の幸福に必要なものを、教えてくれている気がするから…

僕は、何かにつけて口うるさい母がイヤでしかたがありませんでした。それこそ、1から10まで干渉されているようで、早く独立して家を出て行くことばかり考えていました。

幸い、近くにちょうどいい部屋が開いたので、すぐに引っ越しました。

やっと、うるさい母から離れて暮らすことができ、解放された感じがしてうれしい毎日でした。

ところが、いざ自分で暮らすとなると、食事・洗濯・掃除などでアルバイトで疲れた身体にはこたえました。食事もコンビニで買った弁当やカップ麺で済ますことが多くなり、おまけに洗濯物もたたまずに部屋の隅や衣装ケースに丸めてつっこんでおくようになってしまいました。

そんなある時、自転車のカゴにおかずが置いてありました。母に違いありません。

アルバイトで疲れた身体に母の作った「肉ジャガ」の味には、とても有り難い気持ちがしました。何も手紙やメモもありませんでしたが嬉しい感がしました。

一緒にいる時は“口うるさいだけの母”と思っていましたが、そうではありませんでした。親としての優しい愛情だったのです。

それでも、実家に帰ると母に面と向かって何も言えず、ただ、黙ってあいた容器を台所に置くだけでした。母も何も言いません。



しかし、心の底ではとても感謝しています。

私のオヤジは酒のみで、金にもだらしない人間でした。幼い頃より、いつもそのことが原因で夫婦喧嘩が絶え間なく、私はオヤジが大嫌いでした。

オヤジは当時(昭和30年頃)、繊維会社の人事課で働いていたのですが、会社で問題を起こして解雇同様になり、私は生まれ育ったその土地を、小二の時に引っ越すことになりました。

それからの生活は、貧乏と家庭環境の悪化で最悪のものとなっていきました。そんな訳で、私の兄・姉たちは卒業をすると同時に家を出て行きました。私は中学生頃から、そんなオヤジにひどい暴力を振るうようになりました。困ったオヤジは度々、町の相談所へ行っていたようです。

中学を卒業した頃に、オヤジは家族の誰もいない時に、アパートの共同トイレに行く途中で倒れて亡くなってしまいました。

葬式の時に、オヤジに「金を貸していた」と、同じ職場の人に催促されたほどでした。全く尊敬できない、どのように思い返しても“しょうもないオヤジ”でした。

やがて、私も結婚をし、3人の父親になりました。

時は過ぎ、私は50歳を越える年齢となった頃に、この地域一帯がニュースで大々的に取り上げられるような災害に遭ってしまいました。それでも、多くの方々の援助で、何とか立ち直ることが出来ました。

それから半年ほど経った頃に、オヤジが当時、勤務していた土地に嫁いでいた姉から電話がありました。

姉の話によると「この前、年老いたご夫婦が訪ねて来てこんな話をされた。『私は20歳の時、お父さんの勤めていた会社に面接に行きました。しかし、私は戦争で手に障害があったので採用は無理なようでした。その時に人事課の課長さんであったお父さんが、上司に、何とか採用してほしいと熱心に頼んでくれたお陰で今日まで生きてこられたのです。あの時に就職が出来なかったならどうなっていたかと……』

さらに話を続けて『会社で問題を起こした。と、された事件もお父さんを解雇させたい人達の策略にあったのです。引っ越されてからも、風の便りでお父さんやご家族のことは気にかけておりました。お父さんが亡くなられたことも知っていました。お礼を言わないままに、この歳になってしまい申し訳ありませんでした。恐らく、この前の災害で、ご家族がり災されたのではないかと思い、この機会に、一言だけでもご家族の方に、お見舞いと過去のお礼を告げたいと、夫婦で思い切って訪れさせて頂きました』と言われてビックリしてしまったわ。だらしがないだけのお父さんと思っていたけど、そんなことがあったなんて知らなかった」とのことであった。

私も、その話には驚きました。母からも、もちろんオヤジからも聞いたことのない話でした。


大嫌いで軽蔑すらしていたオヤジに対して、この話以来、少し尊敬をするようになりました