先週、


たまたま TVをつけたら

NHKBSで 後藤新平伯爵の番組を放送していました。


後藤新平伯爵は元々は医者でした。


後藤新平伯爵は当時の政治家の中でも

大変優れた政治家です。


岩手県 奥州市には後藤新平記念館があります。


ここで


後藤新平伯爵の声が聞けます。



政治家は

私利私欲でなく 国のため、国民のために

働くものだとお話されています。



以下 ウィキペヂアがら引用です。

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後藤 新平(ごとう しんぺい、


安政 4年6月4日1857年 7月24日 ) - 昭和 4年(1929年4月13日 )は日本医師官僚政治家位階 勲等 爵位正二位 勲一等 伯爵


台湾総督府 民政長官。満鉄 初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣


東京市 第7代市長、ボーイスカ ウト日本連盟初代総長。

東京放送局(のちの日本放送協会 )初代総裁。

拓殖大学 第3代学長を歴任した。


計画の規模の大きさから「大風呂敷 」とあだ名された、日本植民地 経営者であり、都市計画家 である。


台湾総督府 民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本 の大陸進出を支え、鉄道院 総裁として国内の鉄道を整備


した。関東大震災 後に内務大臣兼帝都復興院 総裁として東京帝都復興計画 を立案した


道路建設 に当たっては、東京 から放射状に伸びる道路環状道路 の双方の必要性を強く主張し、計画縮


小されながらも実際に建設 された。南北軸としての昭和通り 、東西軸としての靖国通り (当初の名称は「大


正通り」)、環状線の基本となる明治通り (環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が


行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道 を含め70mから90m、中央または車・歩間に


緑地帯 を持つという大規模なもので、自動車 が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。



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関東大震災の後

靖国通り、明治通り、昭和通りなどを作られたのです。


wikiにも

現在の東京都市骨格 、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。

と書かれています。




フランク・ペッターさんの著書「Thisi is 靈氣」によると、

臼井靈氣療法学会の小山先生からの
 
お話として
臼井先生は 後藤新平伯爵の私設秘書をされていたそうです。


後藤新平伯爵の私設秘書として
台湾や 満州などに出かけられました。

そこで 

陸軍や政府官僚の方との太いパイプを築き
それが後に 靈氣が広まる
原動力になったそうです。


後藤新平伯爵は満州に鉄道を引いたのですが
臼井先生はその調査に加わっていたようです。

当時の 満鉄社員録に 
臼井先生のお名前(臼井甕男)が記載されています。

(明治40年~41年)